フォト

最近のトラックバック

カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2008年1月10日 (木)

Little DJ 小さな恋の物語

 焦った。びっくりした。はじめてこの物語の存在を知ったのは12月暮れの読売新聞に載った映画の広告。すぐにインターネットでどんな物語かを調べた。そこには次のような紹介文が記されていた。「入院生活に飽きてきた頃、毎日お昼に聞こえる音楽に興味を持ち始めた太郎は、やがてお昼の院内放送のDJを行うように」「誰もが忘れられない初恋と少年少女の成長を70年代の名曲で彩る、ノスタルジックな日本版“小さな恋のメロディ」。ますます、焦る。私が制作している『春一番』にはDJを夢見る二人の少女が登場する。そして、『春一番』は70年代にヒットした名曲である。私は、すぐにアマゾンにこの小説を注文した。あらすじを見た感じでは、DJになりたい主人公という以外の共通点はありそうもなかったが、気になって仕方なかった。アマゾンから届けられた本をその日のうちに読み始めた。そして、全く違う地平にあることを確認し、そこで読むことを中断した。昨日、再び読み始めとりあえず最後まで読んだ。

 泣くという気持ちからかなり遠いところに自分はいた。これを読む少し前に読んだ、森絵都の「彼女のアリア」「つきのふね」では、はからずも涙いてしまった私だったが(もちろんどちらの作品も人は死にません)、「Little DJ」はあまりにも激しく、「泣け、泣け」という叫び声が聞こえてくるようで、ひいてしまった。舞台の世界でも、役者があまりに激しく泣くとその勢いに観客がひいてしまうということがよくあるが、それと同質の何かを感じた。

 息子の闘病を通して父が変容していく流れは「君は海をみたか」(倉本聡)であり、落ちは「ラブレター」(岩井俊二)だった。ただし、「ラブレター」に満ちあふれていた詩情がない。
 一言で言うと、典型的な難病ものであった。難病もののほとんどを嫌う自分ではあるが(その代表作は「ジョーイ」「ある愛の詩」)、難病ものを否定するわけではない。私自身「降るような星空」という作品を若い頃に書いている(主人公の弟が難病で死んだことが回想で提示される。主人公がラストで死ぬ難病ものとは違うが…)。ただ今の自分は感動の単なる道具として機能する難病ものは書かないだろう。難病に向き合うということは、本人にとってもその周りにとっても、単にきれいごとではすまされないのだ。

 難病ものの多くが死を、美化していると感じる。そんな難病ものではない難病ものが描ければ描いてみたい気もする。

 DJという小道具以外の共通項はなさそうである。一安心。…といっても注目度に関しては私の『春一番』など、『Little DJ』にはまったく歯が立たない、埃のような作品なのであるが。埃には埃なりの誇りがある。

◆幻の森通信・目次 →ここをクリック

◆ホームページ→幻の森

2006年2月 5日 (日)

『学力を育てる』(志水宏吉 著) 叱るのではなく怒る

 『学力を育てる』(志水宏吉 著 岩波新書)には「効果のある学校」=「人種や階層的背景による学力格差を克服している学校」の取り組みについての考察がなされている。そして「効果のある学校」の特徴として「教師がよく怒る」ということが書かれている(それと同時に「教師がよくほめる」ことも書かれている)。

 著者は「効果のある学校」の先生の、「『叱る』ではなく、うちでは『怒る』んです」という言葉を紹介している。最近は生徒が「先生、怒ってはいけないんです、叱らなければならないんです」などと怒る先生を諭すことがあるという。
 確かに憎しみが子供に向けられ、感情的に怒ることがよいことであるはずがない。しかし、子供は叱ることで伝えたいことが伝わるわけではない。人間としてやってはいけないことをしたときは、言葉で言って聞かせるだけでなく、その行為に対して怒っているということを示すことも時として必要だ。

 「子供を大切にすること」と「子供を怒ること」を対立概念としてではなく、同じ方向性として捉えた点に共感する。

◆幻の森通信・目次 →ここをクリック

◆ホームページ→幻の森

2006年2月 3日 (金)

『学力を育てる』(志水宏吉 著) 太陽であると同時に大地である教師

 『学力を育てる』(志水宏吉 著 岩波新書)を読了した。多くの教師が読むべき本だと感じた。

 著者は学力の3つの要素を「学力の樹」というイメージを使って説明する。葉が「知識、理解、技能」、幹が「思考力、判断力、表現力、論理構成力」、根が「関心、意欲、態度」。そして「三つの学力が文字通り一体となって、ひとつの学力の樹を形づくっている」ことを説明していく。「学力の樹」は、学力とは何かをイメージする上で大変有効である。

 教師は「太陽」とも「大地」ともなりうる存在である。「太陽」となって強い指導力を発揮し、子どもたちにさまざまな知識や技能を伝えることをしなければならない。それは「指導」という働きかけである。また「大地」となって、彼らと信頼関係を築き、彼らにチャレンジさせたりすることを通して、彼らの根っこや幹や枝を太らせようとしなければならない。それは「支援」である。

 「教師は指導でなくて、支援をしなければならない」というような主張をする人が犯している間違いは、指導と支援を対立概念と捉えていることである。そして、そのような主張をする人たちが学力の樹を痩せさせている。志水氏が主張するように「指導」と「支援」は、どちらが重要というような対立物ではなく、相補的であるべきものである。

 私が尊敬する大村はま先生が取り組んできたことが、志水氏が主張する「学力の樹」を育む教育なのだと感じた。葉と幹と根のどれが大切というのではなく、どれも大切にしていく姿勢。私は英語教育において、その有効な手だてをもう一度考え直してみたいと思う。

◆幻の森通信・目次 →ここをクリック

◆ホームページ→幻の森

2006年1月28日 (土)

『リンさんの小さな子』 号泣という宣伝が似合わない号泣本

 昨年読んだ本の中で一番心に残ったのは『リンさんの小さな子』(フィリップ・クローデル著 みすず書房)だ。読後、作家・川上弘美がこの話に号泣したと知った。事前にその情報を知らなくてよかった。号泣する本だと聞いていたら、私はこの本を手にしなかったはずだから(ただ、号泣したのがほかならぬ川上弘美なので、手にした可能性はあるが)。

 私は号泣することが嫌いではない。号泣するような作品に触れ、心から泣きたいと思っている。しかし、私は子どもの頃から号泣を宣伝文句にするような小説、映画、漫画に感動して号泣したという記憶がない(子どもの頃の『キタキツネ物語』、『ジョーイ』、中学時代の『ある愛の詩』、20代の『火垂の墓』など)。そのような数多くの経験から、最近の私は号泣が宣伝文句となっている作品には近寄らないのだ。

さて、『リンさんの小さな子』に私は号泣したか。答えは「否」。しかし、今の私には、号泣を宣伝文句にするには全く似合わないこの物語に、号泣する人がいるということが理解できる。『リンさんの小さな子』は、号泣が宣伝文句である多くの作品に号泣できなかった人が、号泣する可能性を持つ作品なのだ。

 物語は現在形で語られる。過去形はリンさんが故国を回想するときにのみ使われる。
 リンさんは戦争で家族を失い故国を追われた。そしてサン・ディブという生まれてまもない赤ん坊を抱いて、難民となって故国に戦争をもたらした国にやってきた。そこで彼はバスクという男と出会う。二人はまったく言葉が通じない。しかし、二人の心は通い合う。
バスクという男が言葉が通じないリンさんに、言葉が通じないからこそ語れる胸の内を吐露する過程で、心が浄化されていく描写が素晴らしく、読んでいる私の心も一緒に浄化されていった。

 読者はラストシーンを読み終えたところで、なぜこの作品の題名が『リンさんの小さな子』なのか理解することだろう。そして、一ページ目から読み返すことだろう。少なくとも私はそうした。そして、作者の企みにまんまとだまされたことに気がつくのだが、だまされたということは決して不快ではなく、爽やかな風となって心地よさをもたらすのだ。

 『リンさんの小さな子』は「珠玉の」という形容が似合う作品である。

◆幻の森通信・目次 →ここをクリック

◆ホームページ→幻の森

2006年1月17日 (火)

『あらしのよるに』 続編がなければ

 『あらしのよるに』(木村裕一・作 あべ弘士・絵)が昨年末に映画として公開され、けっこう評判を呼んだ。私はこのシリーズの第一作である『あらしのよるに』が好きだ。3年前に購入し、学級文庫にも置いた。子ども向けとはいえ、中学3年が読むのに充分堪えうる内容であると感じたからだ。
 第一作のよさは嵐の夜、雷の嫌いな狼と山羊が真っ暗な中、小屋の中で出会い、お互いを誰だかわからないまま、一夜を過ごす。 お腹をすかせた二人は食べ物の話をする。食べ物という言葉が意味するのは、狼は山羊、山羊は草であり、二人の思い描く世界はすれ違ったままであるにもかかわらず、会話は見事に成立していく。その認識されないすれ違いを描いた表現は見事であった。
 そして、二人は相手が誰だかわからないまま明日の昼に会う約束をして別れる。
「あくるひ、この おかの したで、なにが おこるのか。このはの しずくを きらめかせ、ちょっぴりと かおを だしてきた あさひにも、そんなこと、 わかる はずも ない」
というエンディングが粋であった。
 しかし、残念なことに続編が出てしまう。続編は『あるはれたひに』。何とそこでは狼と山羊は友達になってしまうではないか。こうなるといけない。人間の世界の人間同士で語られるべき倫理が肉食動物と草食動物の間で語られるとき、表現と物語はやせ衰えてしまう。
ここかしこに狼が我慢しきれなくなって山羊を襲ってしまったのではないかという表現が現れる。洞くつの中から山羊の悲鳴が聞こえてくる。次の瞬間、洞窟内でけつまづいて怪我をした山羊をおぶって歩いてくる狼が現れるといった具合に。
その続編『くものきれまに』では山羊の友達まで現れ、物語はますますやせていく。

 昨日のブログでファーブルが記した「命の法則」について引用した。
 狼が山羊を食べることは悪徳ではない。それゆえ、結末はわからないまま終わりにすべきだった。映画は続編が中心になっているようなので見ることはないだろう。子どもが友情の大切さを学ぶにはよいのかもしれないが、そのことについても「Yes」とは言いにくい。
 教師である私は、生徒に友情の大切さも語る。しかし、狼が狼であること、羊が羊であることに畏敬の念を感じている私が、友情の物語を狼と狼の話で語ることはないとはいえないが、狼と羊の話で語ることはありえない。
 一昨日オオタカに襲われたコガモのことを紹介した。『あらしのよるに』を見た子どもが、狼・オオタカ(肉食)=悪、山羊・コガモ(非肉食)=善のような二分法を身につけないことを望みたい。

「Yes」といえない私の思いの根拠については、ファーブルが『昆虫記第五巻』(岩波文庫で出ている全集では第十分冊)の「蝉と蟻の寓話」という章で、明解に語ってくれる。長くなるのでここで引用はしないが、興味がある方はぜひそちらをお読みください。

 つぶやき
 宮澤賢治の『なめとこ山の熊』は偉大な物語である。

◆幻の森通信・目次 →ここをクリック

◆ホームページ→幻の森

2005年11月13日 (日)

『太平洋戦争下の学校生活』(岡野薫子 著)読了

 次回作の脚本の資料として『太平洋戦争下の学校生活』(岡野薫子著 平凡社ライブラリー)を読んだ。533ページという浩瀚な本であった。作者・岡野薫子は児童文学『銀色ラッコのなみだ』の作者であることをプロフィールで知った。この児童文学は小学生の時学校の図書室で借りて読んだはずだ。内容ははっきりと覚えていない。  

 彼女が語る戦時下の学校生活は今まで読んだたくさんの戦争の資料では触れたことのない魅力にあふれていた。その魅力の一つは彼女が虫めずる姫君であることと、彼女がその虫めずる姿勢を戦時下においても持ち続けていたという事実である。  

 この作者、昭和18年、高等女学校3年生(現在の中学3年生)の春に先生から『不思議な虫の世界』(現在の『ファーブル昆虫記』)をプレゼントされ、その秋には戦争が激しくなる中、虫の観察日記を書いている。そして、将来は昆虫学を学びファーブルのような人になりたいという夢を持っていたそうだ。  

 そのような自由な思想を持っていた人ならきっと反戦思想を胸に秘めていたことだろう、と思いきや、当時の彼女はこちこちの軍国少女だったのだという。彼女が一番惹かれた教師は「終身」と「教練」を受け持つ学校きっての国粋主義者であったことも正直に語られている。ファーブルにあこがれるこちこちの軍国少女。実に面白い。  

 今回私が描くのは戦争時の人々ではなく、戦争時の人々のことを調べる中学生の少女たちである。『太平洋戦時下の学校生活』を読みながら、作品が一気に形になってきた。

◆幻の森通信・目次 →ここをクリック

◆ホームページ→幻の森

2005年10月17日 (月)

『西の魔女が死んだ』 銀龍草(ギンリョウソウ)

PICT0051 昨日紹介した『西の魔女が死んだ』(梨木香歩 作)にはキュウリグサと共にもう一つ印象深い植物が登場する。主人公が林の中にある穴の中に落ちたとき、その植物が穴の中一面に咲いているのだ。その植物は物語の中で次のように表現されている。

◆穴の脇は更に深い洞のようになっていて、その一面に美しい銀色の花が咲いていたのだ。暗い林の奥の、そのまた暗い、ほとんど陽も届かないはずの場所に。その植物は二十センチくらいの、葉を持たない銀白色の鱗をつけた茎の先に、やはり銀細工のような小さな蘭に似た花をつけていた。それが何十本となく、まるで茸かつくしのように地面から生えているのを見るのは不思議な光景だった。

山の植物を少し知った人なら、この描写でこの花が銀龍草(ギンリョウソウ)だとわかるだろう。この小説の他の植物は片仮名で表現されているのに、このギンリョウソウは銀龍草にギンリョウソウというルビが振ってある。確かに漢字で表現したくなる素敵な名前の植物である。私の幻の森にふさわしい幻のような花だ。

※写真 銀龍草(2004年6月 駒止湿原にて撮影)
この花について以前に書いた日記

◆幻の森通信・目次 →ここをクリック

◆ホームページ→幻の森

2005年10月16日 (日)

『西の魔女が死んだ』 キュウリグサ~さりげない自然への愛~

PICT0062_edited 『西の魔女が死んだ』(梨木香歩 作)という小説は生命を扱った素敵な物語だった。シジュウカラ、エナガ、コガラ、ホトトギス、ホオノキ、クサノオウ、カヤツリグサたくさんの生き物の名前が登場する。その生き物がどんな生き物か知らなくてもこの小説を楽しむことはできる、しかしその生き物の名前が映像として浮かぶとき、この物語は更に面白いものになる。

主人公の少女はサンルームの床のれんがの隅に生えている小さな雑草に興味を持つ。そしてそのワスレナグサを小さくしたような青い花にヒメワスレナグサという名前を付ける。素敵な名前だ。この花の正式名がキュウリグサであることは最後で提示されるが、この物語に心を動かされた人はこのキュウリグサは知っておく必要がある。もむとキュウリのような匂いがするというキュウリグサ(試してみたが、そういわれればキュウリの匂いという気もする、その程度の匂いだと私は感じている)、私の好きな花の一つでもある。都会、田舎に関わらず日本中の平地のどこでも見ることができる花だが、とても小さいのでこの花に目を止める人はほとんどいない。
※写真 キュウリグサ(2005.5 自宅周辺で撮影)

◆幻の森通信・目次 →ここをクリック

◆ホームページ→幻の森

最近の写真