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カテゴリー「映画・テレビ」の記事

2008年1月23日 (水)

回顧2007 心に残ったTV番組 ハゲタカ、点と線…

2007年のTV番組で心に残ったものをあげてみよう。

「ハゲタカ」
 面白かった。これほど次回の放送が待たれるTVドラマが今までどれだけあったろうか。高校時代から経済が嫌いな私は、真山仁の経済小説が原作であるこのドラマを見ることを初めは躊躇したのであるが、読売新聞紙上で激賞されていたので、とりあえずという気持ちで見た。見始めてすぐ、「とりあえず」という気持ちは消えてなくなった。
 予定調和的にドラマが進まない。そのために次がどうなるのか読めない。善と悪が見方によって変わる。ある人は別のある人にとっては善、しかし更に別のある人にとっては悪。勧善懲悪とは対極にありながら、ピカレスクロマンといった悪の物語ではない。善悪を超えたところで人間の魅力が胸に迫ってくるドラマであった。芸術でありエンターテイメントでもある。テレビ番組での最高の栄誉であるイタリア賞を受賞したことに驚きはない。当然だと思う。
 
 日本のテレビドラマのイタリア賞受賞は27年ぶりである。前回の受賞は、『四季~ユートピアノ~』(1980年の受賞作 構成・演出:佐々木昭一郎)。確かにこの作品も素晴らしかった。佐々木昭一郎は私が一番好きなTV演出家。語り出すと止まらないくらい…。そんな彼の作品と肩を並べる作品がこの国に現れるとは(あくまでも賞の上での話だが)。生きているとよいことがある。

「点と線」テレビ朝日開局50周年記念ドラマスペシャル
 松本清張の推理ドラマは、謎解きの素晴らしさは言を俟たないが、人間の描き方も実に見事である。巨悪に立ち向かう一刑事の物語という見方もできるが、単なる勧善懲悪ものではなく、巨悪に属する人たちも実に丁寧にかつ魅力的に描かれていた。原作よし。竹山洋の脚本よし。石橋冠の演出よし。役者はみな達者。前・後編に別れる超大作であったが、時間が経つのを忘れて見た。

「ハイビジョン特集 ファーブル昆虫記 ~南仏・愛しき小宇宙~」
 私の大好きな「ファーブル昆虫記」。その世界をこんなにすてきな映像で見せてくれる番組ができるとは。NHKハイビジョンに感謝。

「数学者はキノコ狩りの夢を見る~ポアンカレ予想・100年の格闘」
 ポアンカレ予想を証明するまでの数学者の格闘、それを解いたペレリマンの人生が描かれる。数学のノーベル賞と呼ばれるフィールズ賞を辞退したあと、彼は人とのつきあいを断って故郷の森でキノコ狩りをしているという。これもNHKハイビジョンの放送。NHKハイビジョン万歳。

 連続ドラマはまず見ない。この1年で見たのは『ガリレオ』だけ。原作者が東野圭吾であることに惹かれ、勢いで見てしまった。心に残る作品ではなかったが、録画して食事をしながら見るには「実に面白い」。そうそうずっと見続けている番組は今年も健在だった。それは『迷宮美術館』。昨日放送されたルネ・ラリックの特集もよかった。

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2006年9月10日 (日)

溝口健二 没後五十周年に思うこと

9月9日(土)、THE DAILY YOMIURI誌のMOVIESのコーナーにAaron Gerowの「Retrospective gives Mizoguchi his due - at last」という記事が載った。
「回顧展がついに溝口健二監督に当然支払われるべきだったものをもたらす」ということである。そこに、溝口監督は当然支払われるべき正当な評価がなされてこなかったということが書かれていた。

私は大学4年の時、蓮實重彦教授の映画表現論を履修していた。溝口健二監督はその授業の中で、蓮實教授が取り上げた監督の一人である。その授業の中で私は溝口監督の名を初めて知った(それと同時に私が映画について何も知らないことを認識した)。蓮實教授は宿題として溝口健二監督の映画を観るという課題が出し、私は文芸座に『西鶴一代女』と『雨月物語』を観に行った。楽しい宿題であった。

THE DAIRY YOMIURIの記事に触発され、私は今日、DVDに録画してあった『山椒大夫』を観た。美しい映画であった。田中絹代の素晴らしさを形容する言葉が見つからない演技に心が熱くなった。原作とは違い、厨子王の母の目が最後の最後まで開かないことも、私には説得力のある結末と感じられた。
10年以上前に買ったまま本棚の片隅に置かれていた『溝口健二の人と芸術』(依田義賢・著 教養文庫)を引っ張り出して読んだ。溝口監督が脚本家の依田に投げかけた次のような言葉が心に残った。

「もっと、深く掘り下げていただくんですな。人間を描いてもらいたいんだよ。人間をぶったぎって、断面だけを、描くんじゃなしに、まるごとですよ、まるごとを描いてもらいたいんだな」

今の私の心に響く言葉だ。
溝口監督の映画についてもっと知りたいと思い、Amazonで検索してみたが、溝口監督の映画について書かれた本で買いたいと思うものは見つからなかった(というか彼の映画に出演した女優について書かれた本が一冊あるだけであった)。『溝口健二の人と芸術』は絶版となっていた。そしてマーケットプライスでなんと8000円の値段がついていた(ちなみに私が買ったときの値段は800円)。確かに溝口監督は正当な評価を受けていないようだ。

8月の終わりにNHK衛星第二で放送された溝口健二特集をすべて録画してあるので、時間を見つけてしばらくの間、彼の世界に浸ってみようかと思っている。

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2006年1月31日 (火)

『時効警察』 クスリ、クスリのよい薬

 先週と今週、テレビ朝日の連続ドラマ『時効警察』をみた。映画や演劇の世界で活躍する5人が交替で脚本・監督を務めるという試みがユニークだ。その5人とは三木聡、岩松了、園子音、塚本連平、ケラリーノ・サンドロビッチ。その劇づくりに興味を持っている、岩松了とケラリーノ・サンドロビッチが参加しているのでは、見ないわけにはいくまい。

 ドラマの筋とは関係なく随所に挿入される笑いは、時に滑っていると感じることもあるが、嫌な気分をもたらすものではない。肩が凝ることなく、怒ることなく見ることができる。『時効警察』の作り手達の笑いの概念は、私のそれに近いものを感じる。『スイングガールズ』や『Mr.ビーン』の監督が笑いと考えている、私にとっては絶対に笑いにならない笑いは一切登場してこない。

 2作目のドラマ終了時に出た「マイケルはジャクソンですが このドラマはフィクションであり 登場人物・団体名等は全て架空のものです」というテロップには笑った。
 3作目(岩松了・脚本・演出)は全体が自然。一発芸の爆笑はないが、一発芸の笑いに笑いでなく怒りを感じてしまう私にとっては、とにかくこのクスリ、クスリの笑いが薬である。さてケラリーノ・サンドロビッチはいつ登場するのだろう、『時効警察』にブラックの笑いが加わるのだろうか。今から楽しみである。

 推理ドラマの感想に笑いのことばかり書いてしまったが、『時効警察』は推理の善し悪しを云々する作品ではないと私は考えている。

追伸
薬といえば、インフルエンザ。タミフルのおかげでひどくならずに治った。

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2006年1月29日 (日)

笑いについて考える その1 ~『スイングガールズ』~

 昨年『スイングガールズ』(矢口史靖・監督)をみた。ラストで『LOVE』が使われているというのがみた理由だ。当時、『LOVE』という題の劇を作成中であったから。映画の中で『LOVE』は演奏されるのではなく、エンドロールで流れるだけだった。
 さて、多くの人が笑い楽しんだというこの映画、矢口監督の『ウォーターボーイズ』が全くといっていいほど笑えず楽しめなかったので、笑えないだろうという予想を裏切ることはなかった。楽しめない。私一人楽しめないのなら、私が変人ということにもなろうが、幸いなことに?妻も全然笑えず、楽しめず。
 なぜ私たちはこの映画が笑いとして送り出している表現を笑いと感じないのだろう。それを考えてみた。
 そして、この監督と私たちでは笑いの概念が根本から違っているという結論に到達した。

ますこの監督が笑いとして提示しているもののいくつかを挙げてみよう。

  1. 吹奏楽部の少年が大切な楽器の中に食べたものを吐いてしまう。
  2. 子供たちが下手な演奏している生徒たちに石を投げる。
  3. 主人公の少女が届けなければいけない弁当を一つ食べてしまう。
  4. 主人公の少女が家にあるものを勝手に持ち出して売ってしまう。
  5. 少女たちが弁当を腐らせ、それを食べた吹奏楽部の生徒を全員食中毒にしてしまう。
  6. イノシシに追いかけられ木に登った大柄な少女がそこからイノシシの上に落ち、イノシシの頭蓋骨にひびがはいりイノシシが死ぬ。

1.を考えてみよう、自分のクラスでそのように吐いている生徒を見て笑う教師がいるだろうか。いたら大変である。その直後からそのクラスの担任をしていることはできないだろう。
◆それでは隣のクラスなら?
 ー もちろん教師失格である。
悲しいかな、友達が嘔吐することを笑う生徒は存在する。クラスの心が育っていない場合は、多くの生徒が笑うということも起こりかねない。その時は笑わなくても、後々笑いの題材で使うということも起きる。

◆道を歩いている人なら?
 ー教師なら笑うべきではないだろう。
 そう教師は現実の場で嘔吐する人を笑うことはほとんどない。では、そんな教師も『スイングガール』の吐く映像で笑ってしまうのはなぜか。おそらくそれは、吐くということが演技だからであろう。吐くというのは演技であり、その人が本当に苦しんでいるのではないということがわかっているから安心して笑うのである。

 ここで新たな疑問が沸き起こる。それでは、それが演技であるなら、「吐く」ということは笑いに繋がることなのだろうかということだ。私たちに関してはそれは「否」である。

 例え悪いイノシシであってもその「死」は笑いだろうか。石を投げることは「暴力」であるが、それは笑いだろうか。バラエティー番組でよく行われる罰ゲームでは、それを企画する側とその罰ゲームに大声で笑う観客の両方に凍りつく自分がいる。

 バナナで滑って人が転ぶ。これは笑いか?人の失敗は面白いというのは多くの人にとって真理である。私もそれが笑いの一要素となり得ることは認める。しかし、私は人がただバナナで滑って転ぶだけではおかしくない。私はバナナで滑って転びそうな人が月面宙返りをして見事に着地したらおかしい。きっと大いに笑うだろう。それは見下した笑いではなく尊敬を含んだ笑いである。(ちなみに私はプロ野球のファインプレーの特集は大好きだが、珍プレー特集は大嫌いでテレビを消してしまう)

 平田オリザはその著『演技と演出』でスイングガール的な笑いを一発芸の笑いと定義する。そしてそれは持続しても5分程度で終わってしまう瞬間的な笑いであり、決して演劇的な笑いではないという。一発芸の笑いは、幼児の下ネタと同レベルの笑いである。子どもかわいさに下ネタを笑い続けると、それが本当の笑いと認識する子どもが育つ。
  学校が荒れていると、そんな下ネタの落書きが目立ってくる。心が荒んでいると、そんな笑いばかりがはびこる。私は現実であろうと虚構であろうとそのような表現を笑いとは考えない。
 私はそんな一発芸ではない演劇的な笑いを提示したい。しかし、一発芸に慣れた人たちにはそれは笑いではないのだろう。

◆◆◆

笑いについて考えを深めたいと思い、哲学者ベルクソンの書いた『笑い』(岩波文庫)を一気に読んだ。

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2006年1月16日 (月)

『サバンナ 命を育む神秘の樹』 正月のテレビで一番心を動かされた番組

 正月はのんびりテレビを見ながら過ごした。『古畑任三郎シリーズ』を三夜連続で見た。イチローの演技力の素晴らしさに驚いた(作品は一夜目が一番よかったか?)。『南総里見八犬伝』を見た。S.E.N.Sの音楽が素晴らしく、テーマ曲が入っているCDを買った。いずれも年賀状の返事を書きながら見るにはよいドラマだった。

 そんなテレビ番組の中で最も心を動かされたのは16日(金)にNHKで放送された『サバンナ 命を育む神秘の樹』だ。マーク・ディーブル、ビクトリア・ストーン夫妻による秀逸な映像と作品の中に貫かれている自然を見つめる透徹した視線に心が震えた。ワンシーンたりとも見逃したくないと思える、年賀状を書きながらでは見ることのできない作品だった。

 夫妻は東アフリカのサバンナの川沿いに生育するクワイチジクの大木に集まる生きものをどの生きものにも寄り添わずに見つめる。イチジクの実はアフリカゾウをはじめ、キリン、サイチョウなど多くの生きものを引き寄せる。サイチョウの愛らしい子育ての様子と、その子どもが何万匹にも思える蠅の餌食になる凄まじい映像。自然のありのままを見つめようという姿勢が素晴らしい。
 イチジクが育つためには、一種類のイチジクコバチと呼ばれる小さなハチの存在が欠かせない。イチジクコバチは一生の大半をイチジクの実の中で過ごす代わりに、花粉を媒介することでイチジクに報いる。イチジクコバチは体を更に小さな線虫に寄生されながらその使命を果たす。

『昆虫記』のファーブルは「寄生虫いろいろ」の章で生の法則について次のように語る。

総じて生は限りなき略奪にほかならない。自然はおのれ自身を喰っている、物質はこの胃袋からあの胃袋へと過ぎながら生命を得ている。生物の饗宴では、おのおのはかわるがわるお客になり、ご馳走になっている。今日の食い手は、明日の喰われ手。一切衆生は生きているもの、生きていたもので生きている。いっさいは寄生生活である。人は偉大なる寄生者だ、食えるものすべての残忍な略奪者だ。(中略)それは悪徳だろうか。否、それは「一つのものの生は、他のものの死を要求する」という残忍な法則である。

夫妻の視線に敬愛するファーブルの視線を感じた。
昨日のブログにオオタカに襲われたコガモのことを書いた。夫妻の視線はオオタカ=悪、コガモ=善というような二分法を拒絶する、生態系を丸ごと捕らえた視線である。

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2005年10月15日 (土)

『映像詩 里山~命めぐる水辺』 しずくの中の世界

NHKスペシャル『映像詩 里山~命めぐる水辺』をみた。テレビ番組の国際コンクールの中でも権威があるといわれている「イタリア賞」をはじめ数々の賞を受賞した作品だ。
素晴らしかった。蛙の目に映る花火、雫の中に映し出される里山の風景に大江健三郎が少年時代書いた詩を思い浮かべた。

雨のしずくに
景色が映っている
しずくのなかに
別の世界がある

単に自然の美しさを描いただけではない、その描き方の素晴らしさ。この作品は極上の芸術である。このような作品に触れると「どんな芸術も自然の素晴らしさには勝てない」などという言葉が嘘であるという確信が持てる。自然と人間・人工は対立概念ではない。自然が創り出す芸術は素晴らしい。しかし、人間が創り出した芸術もそれに負けず劣らず素晴らしいものだ。私はどちらの芸術も愛している。

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2005年10月14日 (金)

『ハルとナツ』 静かで深い感動

ビデオで撮っておいた『ハルとナツ』を見終えた。今、静かで深い感動が私をとらえている。数多くのテレビドラマで持ち続けていた興味が最後の最後に裏切られ、萎れてしまうという経験は多々あったが、今回は、そのようなことがなかった。 

欠点もないわけではない。回想を中心に構成されるドラマにあるパラレプシス(語り手の記憶にはないはずのものが映像で現れる。例えば、ナツが出した手紙を伯母が盗み読みし、その中に入っていたお金を取ってしまうシーンなど。『タイタニック』などにも存在する)も存在する。しかし、パラレプシスがドラマの欠点以上にドラマに力を与えるものであれば、それは欠点とは言えないのではないかと私は思っている。私もパラレプシスの存在を理解しながらそれをあえて劇中に用いたことが何度かある。私はパラレプシスのようなウソがあってもそこにいかにリアリティーを保てるか、それが大切なのではないかと思う。 

さまざまな涙のシーンが素晴らしかった。
10月10日に書いたハルとナツの姉妹の別れのシーンでの絶叫が自然な絶叫となって心に迫る奇跡の演技。そしてナツが牛飼いの徳治の死に涙するシーンでの絶叫とは違った抑えに抑えた涙。ハルの結婚式でのハルの父・忠次のうめきで表される喜びの涙。
美しい音楽をバックに「さあ泣きなさい、さあ泣きなさい」という凡庸なドラマに必ず登場する押しつけの涙がなかった。

ハルとナツの子ども時代を演じた2人の子役の素晴らしさは先日書いたが、他の役者も素晴らしかった。とりわけ父役の村田雄浩の演技は出色。彼だけは脚本の蓮田壽賀子が指名したというが、それに十二分に応える演技であった。

見終わってからしばらくテーブルから離れることができなかった。涙がとまらなくて困った(隣で妻も見ていたので)。映画館の暗闇で素晴らしい映画を見終えたあと経験するあの感動があった。

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2005年10月10日 (月)

『ハルとナツ』 第1回「姉妹」 

絶叫型のドラマが嫌いだ。恋人の死、友との別れ、死や別れはつらく悲しい出来事だ。しかし、そこで役者が絶叫して泣くと、私の心はそんな絶叫に反比例してドラマから離れていく。特に大人の絶叫は見苦しい。私は誇張演技で彩られた「迫真の演技」「感動の名場面」が好きではない。 絶叫にはそれに似合う年齢というものがある。もし絶叫が許される世代があるとすればそれは小学生低学年までではないだろうか。家の周辺では演技ではない子どもたちの絶叫をしばし耳にする。しかし、そんな子どもをドラマの中で演じきれる子役は多くはないだろうし、自然な絶叫を演出できる監督もそう多くはないと思われる。 絶叫シーンに思いを馳せれば、作られた悲しみに心が醒めたという記憶ばかりが甦る。
ところが、先ほど奇跡のようなシーンを目にしてしまった。そんな奇跡のシーンを生みだしたドラマは、NHKが5夜連続で放送した『ハルとナツ ~届かなかった手紙~』(橋田壽賀子脚本)。放送中は、仕事がピークを迎えていたため、録画して昨日から見始めた。

ブラジルへの移民を決意した、ハルとナツの家族。しかし出発の直前、神戸で妹のナツはトラホームと診断され日本にただ一人残らなければならなくなる。ハルを乗せた船がブラジルへと旅立とうとする場面で、二人の絶叫による別れが演じられる。港から離れていく船に向かってナツが叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。それは演技とは思えない、自然な叫びだった(ナツを演じていたのは志田未来。『女王の教室』にも出ていました)。
回想としても何度も何度も使われるこのシーンは、繰り返しに耐えられるだけのクオリティーを持ち、繰り返される度に涙を誘う。そこに存在した役者一人一人があの世界を信じ、その世界に生きたからこそ生まれたシーンだったと思う。
それを導いた監督にもあのシーンを見事な映像につくりあげたカメラにも拍手を送りたい。第2回までを見終えた段階で、まだ心はときめいている。第5話までこのときめきが続いてほしい。

*****************
『夏の庭』(湯本香樹実著 新潮文庫)読了。寺山修司に師事していただけあって、単なる老人と子どもの心の交流を描いた物語では終わってなかった。

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2005年10月 9日 (日)

『白線流し~夢見る頃を過ぎても~』 深みのあるドラマ

切ない思いに胸が熱くなった。
それはないだろうといった破綻と感じる場面も多々あった。あったが、見終わったあとは「まあそれはそれでいいか」という気持ちにさせてしまう何かが作品に備わっていた。ほろ苦く切なく、それでいて温かいそんな思いが残る素敵なドラマだった。
人生の転機となるような大きな出来事を省略を用いて物静かに語っていく手法が見事であった。主人公が愛する青年の妻(実は婚姻届は出されてなかったのだが)の死や、友達の一人が警察官をやめる場面などが、実にさらりと言葉少なに役者の表情に多くを語らせることでて描かれていて素敵であった。
また登場人物に向ける作者の眼差しに人間を見る深さを感じ、共感できた。今回このドラマでは主人公の教え子の一人として学年一の成績優秀な少女が登場する。多くの学園ドラマでは優等生はその学力の優秀さが心の貧しさの原因となっているというステレオタイプとして描かれる。しかし、多くの凡庸なドラマのような視線はこのドラマにはない。その少女に「私って(頭がいいから)かわいくないよね」とさらりと語らせる場面では、成績優秀であるがために生まれる心の襞が実にさりげなく見事に描かれていた。信本敬子が脚本を担当しているこのシリーズでは、落ちこぼれの生徒にも成績優秀な生徒にも等しく温かい眼差しが注がれている点が素晴らしい。

第3回フジテレビヤングシナリオ大賞で大賞を受賞した信本敬子。その受賞作『ハートにブルーのワクチン』も『白線流し』同様、星が重要な役割を演じる作品だった。もう10年以上前になるが私はフジテレビヤングシナリオ大賞に応募したことが一度だけある。その時受賞作品の傾向を研究するために熟読したのが『ハートに…』だった。私は第6回のヤングシナリオ大賞に応募した。『ときめきよろめきフォトグラフ』と名づけた作品は最終選考の更に先の9人の1人まで残ったが、そこまでだった。
主人公の友達の一人(以前は役者希望だったが現在は脚本家志望?)が最後のシーンでフジテレビヤングシナリオ大賞に応募する。きっと封筒の中には『白線流し』という脚本が入っていたのだろう。そして、それが日の目をみて今まで私たちが見てきた『白線流し』シリーズが生まれていくという円循環を形づくるということになるのだろう。その意味で、このドラマは完結せずに永遠に続いていく。実に見事なエンディングだと感じた。

私はもうヤングではないが、もう一度以前のような夢を追ってみたくなった。

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