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2010年12月12日 (日)

春一番に向かって歩く

春一番に向かって歩く(「演劇と教育」2009年)

 この夏、久喜中学校演劇部は『春一番』を再び上演する。今、思い出深い『春一番』というドラマを振り返ってみたい。そして、同時に今を見つめてみたい。

二日間

◆二〇〇七年十二月二十六日の日記から
 台本渡しの二日後の今日は二〇〇七年最後の部活だった。そこで私たちは初めての通し練習を行った(前半部分は一週間前に渡していた)。台本を渡して二日後の通しである、スムーズに流れるはずはない。台詞は止まる、ワンシークエンスがそっくりなくなる、そんな通しであった。しかし、それぞれがそれぞれの役として舞台上で生きようとしていた。私には彼女らが役として生きていると感じることができた。

 劇の仕上がりを心配して通しを観に来てくれた前部長(三年生)は、途中から心配を忘れて劇に入り込んでいた。劇の半ば過ぎからは大粒の涙を流し続けていた。劇が終わり感想を言ってもらった。しかし、涙でなかなか感想が出てこない。その言葉にならない言葉と涙が、私たちの心に響く最高のメッセージとなった。よい劇になるかも。そんな気がした。そして部活は冬休みに。

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 私は、この四年間に『青空』『春一番』『ザネリ』の三本の新作を書き上げた。三作とも脚本完成から劇の上演までは約二週間だった。脚本完成前から練習は進めているとはいえ、完成から初めての通し練習までの時間は長くはない。

 日記にあるとおり、『春一番』は台本完成後から二日後に通した。私たちの劇を観た人から「自然淘汰によって可能な取り組み」などという批判を受けたことがある。それは単なる憶測によるどうしようもない批判だが、最近はそのような批判も、そう誤解されるほど子どもたちが育ったのだと前向きにとらえることができる。

 前述の二日ということからもそんな批判が起きそうだが、自然淘汰などあるはずがない。二日という短さで通せる背景には、様々な取り組みが詰まっているのだ。二年生にとっては一年九か月と二日、一年生にとっては九か月と二日である(この時期、三年生は引退している)。私たちは、自らの力で劇を創り上げていく取り組みに多くの時間を割いている(創作活動ではなく、既成の劇を形にしていく取り組みである)。その日々の練習が、台本渡し後二日での通しを可能にしているのだ。もちろん選抜メンバーなどではなく、全員を舞台に上げる取り組みとしてである。今回は、その取り組みについて書いてみたいと思う。

よし出し

 全体をいくつかのチームに分け、それぞれのチームが、ある作品の一場面(五分から十分程度の場面)を創り上げる(チーム分けは、一チームに一年から三年までの全ての学年の生徒が入るという条件のもとに、くじ引き等で行われる)。役は固定しない。チームの中で次々とローテーションさせていく。役作りは個々に任される。演出はある一人がするのではなく、チーム全体で行う。そして、最後はそれぞれのグループが、自分たちの創った劇のワンシーンを発表する(発表する時の役は、チーム内の話し合いで決める)。

 発表は和やかな雰囲気の中で行われる。面白い表現には大笑いし、真に迫った表現には涙を流す。そして、一つのチームの発表が終わるごとに感想発表を行う。そこでは上級生が中心になって、仲間のよかったことを見つけそこをほめる。私はこれを「よし出し」と言っている。

 子どもたち同士の厳しい「だめ出し」が劇をよくするという考えもあるだろうが、私はそうは思っていない。「だめ出し」によって明日劇を演じる勇気をもぎ取られた生徒が、表現を伸ばすとは思えない。もちろん誰もがやみくもにほめることはしない。ただ、彼女たちが生み出す発表はすてきな表現に満ち満ちているのだ。そんな表現を目にしたらほめるしかないではないか。

感情に台詞を載せる

 私たちの劇を観た人から、「生徒が操り人形に見える」という批判を受けたことがある。以前は大切な生徒たちに向けられたそのような批判に対して怒りを覚えたのだが、最近はなぜそう見えるのかが理解できるため、そんな怒りも弱まった。

 私たちの劇をそのように批判してくる人は、私が一つ一つの台詞を全部やってみせ、部員は私をコピーして演じていると誤解しているのだ。単なるコピーからすてきな表現が生まれるはずがないではないか。

 私はやってみせることは極力避ける。そして、上級生も、私にやってもらうことを極力避ける。私がやることで表現の幅が狭まることを理解しているからだ。

 久喜中演劇部がよい表現を生み出すために取り組んでいるのは「感情に台詞を載せる」ことである。「感情に台詞を載せる」ことは「感情を込めて台詞を言う」こととは違う。「感情に台詞を載せる」と嘘っぽさがなくなり、表現の幅が広がるのだ。

 怒りを表現したい時には、まず怒りの気持ちでからだを一杯にする。そして、その気持ちのまま台詞を言う。これは、日常では誰もが普通に行っていることだが、演技としてそれを行おうとすると多くの人が自然さを失ってしまう。しかし一度感情と台詞をリンクさせるコツをつかめば、表現力は一気に高まる。「悲しみ」も「喜び」もその感情でからだを一杯にできれば、その感情に載った台詞は自然に響く。

 私が怒りの表現を演じ、それをまねればミニ斉藤がたくさん生まれてしまうが、それぞれがそれぞれの怒りの気持ちに台詞を載せて怒りを表現すれば、ミニ斉藤ではない、様々な魅力ある怒りの表現が生まれるのだ。

モティベーション

 すてきな表現を生む要因の一つはモティベーションの高さだと思う。それぞれのグループが、高いモティベーションを持って、劇を創ろうとする。私が「三十分後に発表しよう」と提案すると、「もう少し時間をください」と迫ってくる。他のグループとの競争ではなく、真剣に観て「よし出し」をしてくれる仲間に、少しでもよい表現を見せたいと思うためそうなるのだ。

 劇を創る楽しさを知り、心に火がついた子どもは伸びる、思いっきり伸びる。中学生はこの程度だろうと多くの大人が考えているラインを遙かに超えて伸びる。特別な力を持った特別な生徒でなくてもである(私は、演劇が好きでさえあれば誰でもと、あえて言いたい)。

 子どもたちの心に、火をつけるということに関しては、私はちょっと自信がある。

「あこがれ」から「できる」に

 入部したての一年生を魅了するのは先輩の姿だ。一年生は、先輩の演技にダンスに歌にあこがれる。このあこがれがモティベーションとなる。あこがれの先輩に教えてもらうことは嬉しい、「上手くなったね」とほめられると嬉しい。

 同時に先輩は、一年生にしっかり教えたいという気持ちがモティベーションとなり、自分自身を成長させる。これはピアサポート呼ばれている取り組みとも共通する。ただ、この時期の一年生は、自分たちが先輩のようになれるとは信じていない。

 毎年そんな一年生が急激に表現が上手くなる時が訪れる。それは自分たちも先輩になるのだと意識した時だ。「自分たちもあこがれている先輩たちのように、新入生のあこがれとなる先輩になりたい」、そう意識した時だ。その時、一年生の表現は伸びる。

 「自分にはできない」という気持ちが「自分にもできるかもしれない」に変わり、「自分にもできるはずだ」と変わっていく。「自分にもできる」と感じた時の生徒の伸びは、驚くばかりである。

 子どもたちの可能性を無限と表現する文によく出会う。しかし、本当にその可能性を信じている人はどれだけいるのだろう。子どもたちは本当に無限と言いたくなるような可能性を持っているのに。

 私たちの劇を観た感想に、「うちの生徒ではできない」と書いてくる顧問が少なからずいる。「うちの生徒はできない」のではなく、「できない」と規定することでできなくさせているのに…。

最初の上演まで

◆二〇〇八年一月七日の日記から
 今日は『春一番』の五回目の通し練習。なかなかよい調子である。一月四日の部活はじめから四日連続の通し練習。一日一日の変化が手にとってわかる。

 一月五日に行った三回目の通し練習に、保護者が八人見学に来てくれた。ありがたい。オープニングでは声を出して笑い、半ば過ぎからは鼻をすする音が断続的に聞こえてくる。今回の劇は、泣きが早く来るようだ。あまり泣きが早く来るので、ラストまでに疲れてしまうのではないかと心配したが、そんなことはなかったようだ。

 明日から学校が始まるため、次の土曜まで通し練習はできない。来週の土曜は前日リハーサル。そして翌十三日が本番である。今日は、台本を渡して七日目の練習。今日までの七日間、無我夢中で劇に取り組んだ。私たちの演劇部は、普段は休日練習も朝練もやらない部活であるが、一年の中にはこのような時もあっていいのかなと思う。

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 「久喜中演劇部は休みなく練習をしているはずだ」と思っている方がいる。その認識は完全に間違っている。劇本番一か月前の七月と十二月中旬から一月初めは休日の部活を行う。しかし、それ以外はほとんど休日の部活を行わない。例年、夏休みと春休みは全休である。もちろん朝練もしない。私たちの部活は火曜から金曜までの週四日の活動が基本である。

 確かにこれだけでは時間は足りない。部員やその保護者からもっとやってほしいという声もないわけではない。しかし私は、そのような状態がよいと思っている。

 毎日その日その日にやることを考え、結局おきまりのルーティーンをこなすというような練習は私自身が飽きてしまう。当然生徒も飽きるだろう。飽きは部活の空気を淀ませる。あれもやりたいこれもやりたいという空気は、部活を進めていく中でとても大切だ。

 部活終了時には「えっ、もう終わり」という声が聞こえる。私は「もっとやりたい」という気持ちに満ちている部活の空気が好きだ。

 取り組む内容は様々で、どの活動も乗り越える壁は高い。それは一度にひょいとは越えられない高さである。そんな壁を一歩一歩登っていく。その一歩一歩をしっかり感じ、一歩一歩を喜んでいく。壁を越えたと思われる先には更なる壁も待っている。だからこそ面白いのだ。

 先ほどの劇創りの練習は劇を次々と変えながら年間を通して行う。ダンスもやる。かなりの技術を要するダンスである。これも年間を通してやる。一朝一夕で上手くなることはないが、それだけに上手くなった時の喜びは格別である。一年間こつこつ続ければ、ダンスが上手くない生徒も、それぞれのレベルで必ず向上がある。そして、ダンスの上達は、表現力の向上にも繋がることを彼女たちは理解している。

 合唱の練習もする。取り組んでいるのはアカペラでの『ふるさと』の三部合唱。美しく響かせることは簡単ではない。簡単ではないからこそ、これまた響きあった時の感動はひとしおである。更に、一・二番を歌い終えた後、歌をハミングにしてそこに谷川俊太郎の『生きる』の朗読を重ねる。三部合唱でハミングをしながら、途中一人一人が詩を語るのだから大変である。大変であるが歌と詩が響き合った時の感動は言葉では言い表せない。

 太鼓の練習もする。久喜市は提灯祭りで有名なところだ。小さい時から練習を積んできた生徒の太鼓のレベルは半端ではない。演劇部は、リズム感覚を養うため、その太鼓を練習に取り入れている。

 台本を渡してから本番まで、日々の練習の延長線上にある取り組みが行われる。一年半前に『春一番』を上演した時の部員は二年生六人、一年生七人の十三人(この時期、三年生は既に引退している)。

 『春一番』は台詞の多い役が六人。七人は台詞はあるが多くはない。ではその七人はその少ない台詞ばかりを練習するのかというとそうではない。そのような練習では修行僧的な存在でない限り飽きがきてしまうのではないだろうか。私は台詞の少ない七人に、台詞の多い役にもついてもらい、もう一つの『春一番』を創った(ただし発表は部室の中だけ)。私は、二つのグループを往復し、それぞれの表現を楽しんだ。

 今回も『春一番』を二チームが練習している。全劇研で発表するため、今回はその二チーム両方に一般観客の前で上演する機会を与えることができる(もう一つの発表は毎年夏に行っている埼玉東部地区の発表会)。顧問として嬉しい限りである。

関東中学校演劇コンクールまでの日々

 二〇〇八年一月十三日、久喜中学校演劇部は三月後半に行われる関東中学校演劇コンクールへの出場を決めた。それではそれに向かって劇の練習を続けるかというとそうはしない。しばらくの間『春一番』から離れるのだ。

 私はこの時期、部員に三年生を送る会を企画する側で、会に参加することを奨励する。この年の部員は全員が送る会の三年生への呼びかけに参加した。長い経験から、感動体験が感情を豊かにし、表現する力を向上させると思うようになった。「三年生を送る会」で、三年生を感動させようと仲間と努力する取り組みは表現を豊かにするはずだ。

 『春一番』を関東に向けてずっと練習するよりも、『春一番』からしばらく離れ、その間に様々な表現活動を行い、再び『春一番』に帰ってくる。私はこのスタンスが好きだ。再び『春一番』に帰ってきたのは卒業式後。私たちは新鮮な気持ちで『春一番』と向き合うことができた。彼女たちの表現は、更に豊かになっていた。

◆二〇〇八年三月二十八日の日記から
 関東中学校演劇コンクールが終了した。久喜中演劇部は最優秀賞をいただいた。長崎からわざわざ見に来てくださった先生からメッセージが届いていた。

「フレーフレー久喜中演劇部。はるばる長崎からやって来たかいがありました。あとから、あとから感動が押し寄せてきて、涙が止まりません。春風に乗せて人のあたたかさを運んできてくれたような、胸が熱くなる劇でした。ありがとうございました」

春一番に向かって

 私は中学生が演じることによって輝ける、そんな表現を探求してきた。時に強い向かい風に出会うこともあった。しかしその向かい風は木枯らしではなく春一番だったのだと思う。

 春一番』が中学生が演じることによって輝く、心にしみる劇になるといい。久喜中演劇部は春一番に向かって再び歩き出した。

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