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2006年1月30日 (月)

笑いについて考える・その2~『笑い』(ベルクソン著)と『スイングガール』との親和性~

 哲学者ベルクソンの『笑い』を読んだ。しかしそれはまったく私の心に響いてこなかった。その理由の一番はベルクソンがその正体を表現しようとしている笑いの多くが、私が昨日ブログで批判した『スイングガールズ』的な笑いであったからだ。彼は「往来を走っていた男がよろめいて倒れる、そのことを通行人が笑う」という笑いを丁寧に分析する。要するに彼が分析しようとしている笑いは、私にとっては笑いでないことが多い『スイングガールズ』的な笑いなのである。
ということはベルクソンの言葉から『スイングガールズ』的な笑いについて、考えを深めることができるのかもしれない。そう思い、何度も何度も読み返してみた。

 ベルクソンは次のように語る。

◆笑いには反響がいるもののように思われる。笑いをよく聞いてみたまえ。それははきはきした、明瞭な、くっきりした音ではない。それは隣から隣へと反響しつつ長引いていこうとする何か、ちょうど山中の雷鳴のように、最初爆発すると、ごろごろと鳴り続けてゆく何かである。◆

 なるほど、確かにそうだ。多くのお笑い芸人が求めている笑い、それは隣から隣へと反響していくものだ。人が笑うときには、それも劇場のような所で笑うときにはまわりの空気が、笑いやすいものでなければいけない。笑いやすい雰囲気になると、人は面白いように笑う。笑いやすい雰囲気をつくるのは、ちょっとのことでまわりを気にせずに笑ってくれる人である。それには笑いに対してのハードルの低い人を笑わせるのが一番である。笑いに対してのハードルが低い人、それはまわりの存在を気にすることなく、笑うことができる人である。
まわりの存在を気にすることなく笑える人、そんな人の多くが一発芸の笑いが好きな人であるということは事実であろう。そんな人が、笑うと劇場の中の笑いに対してのこわばりがほぐれてくる。笑いやすい空気が生まれる。

◆笑いは現実のあるいは仮想の笑い手達とのある合意の、ほとんど共犯とでもいいたいものの、底意をひそめている。

笑いを理解するためには、笑いの本来の環境たる社会にそれをおいてみる必要がある。

笑いは必ずや共同生活のある要求に応じているものに違いない。笑いは必ずやある社会的意味を持っているに違いない。
(以上 『笑い』ベルクソン著 からの引用)◆

ベルクソンが笑いとしてあげるものにはまったく共感できないが、彼が提示する笑いとその笑いがもたらされる環境についての言及にはなるほどと思うところがある。
私は昨日のブログで『スイングガール』で、監督が笑いとして提示したもので私が笑いの要素としてはどうしても認められないものを示した。それは次のようなものである。

  1. 吹奏楽部の少年が大切な楽器の中に食べたものを吐いてしまう。
  2. 子供たちが下手な演奏している生徒たちに石を投げる。
  3. 主人公の少女が届けなければいけない弁当を一つ食べてしまう。
  4. 主人公の少女が家にあるものを勝手に持ち出して売ってしまう。
  5. 少女たちが弁当を腐らせ、それを食べた吹奏楽部の生徒を全員食中毒にしてしまう。
  6. イノシシに追いかけられ木に登った大柄な少女がそこからイノシシの上に落ち、イノシシの頭蓋骨にひびがはいりイノシシが死ぬ。

「死」や「不幸」がブラックな響きを持つわけでもなく、ストレートに笑いとして提示される。現代において、このような笑いはどのような社会的な意味を持っているのだろう。今後考えを深めていきたい。

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