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2006年1月に作成された記事

2006年1月31日 (火)

『時効警察』 クスリ、クスリのよい薬

 先週と今週、テレビ朝日の連続ドラマ『時効警察』をみた。映画や演劇の世界で活躍する5人が交替で脚本・監督を務めるという試みがユニークだ。その5人とは三木聡、岩松了、園子音、塚本連平、ケラリーノ・サンドロビッチ。その劇づくりに興味を持っている、岩松了とケラリーノ・サンドロビッチが参加しているのでは、見ないわけにはいくまい。

 ドラマの筋とは関係なく随所に挿入される笑いは、時に滑っていると感じることもあるが、嫌な気分をもたらすものではない。肩が凝ることなく、怒ることなく見ることができる。『時効警察』の作り手達の笑いの概念は、私のそれに近いものを感じる。『スイングガールズ』や『Mr.ビーン』の監督が笑いと考えている、私にとっては絶対に笑いにならない笑いは一切登場してこない。

 2作目のドラマ終了時に出た「マイケルはジャクソンですが このドラマはフィクションであり 登場人物・団体名等は全て架空のものです」というテロップには笑った。
 3作目(岩松了・脚本・演出)は全体が自然。一発芸の爆笑はないが、一発芸の笑いに笑いでなく怒りを感じてしまう私にとっては、とにかくこのクスリ、クスリの笑いが薬である。さてケラリーノ・サンドロビッチはいつ登場するのだろう、『時効警察』にブラックの笑いが加わるのだろうか。今から楽しみである。

 推理ドラマの感想に笑いのことばかり書いてしまったが、『時効警察』は推理の善し悪しを云々する作品ではないと私は考えている。

追伸
薬といえば、インフルエンザ。タミフルのおかげでひどくならずに治った。

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笑いについて考える その3 ~『五輪書』から再度『スイングガール』について考える~

宮本武蔵著『五輪書』を読んだ。そして次のような言葉に出会った。

観見(かんけん)二つの事、観の目つよく、見のめよわく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、兵法の専也。

「見る」というのは目もとで見ることだという。それでは「観る」といは以下に観るかといえばそれは心で観ることであるというのである。『スイングガールズ』にはルックスの整ったかわいらしい女の子がたくさん登場する。その女の子達をかわいいとみるのは「見る」。この「見る」目がこのドラマの後ろにあるものを「観る」のを邪魔する。
このドラマの後ろにあるものを「観る」ためには、女の子達のかわいらしさを「見ない」ようにしなければならない。

『スイングガール』に登場する女の子達はモラルを欠いたひどい少女達である。
しかし、そのひどさはかわしらしさによって許されてしまう。そして、多くの人が彼女たちのドラマに笑う。

『スイングガールズ』の女の子達には変容がない。性格は全然変わらない。変わるはずはない、その性格は作者にとって変容する必要がないものだから。その性格は笑いの材料として監督にとって不可欠なものである。彼女らが変容させていくのはただ単に楽器を演奏する技量のみである。その演奏力が伸びると同時に、彼女らの内面が成長することはない。『スイングガール』は外面的な成長のドラマではあるが、内面的な成長のドラマではない。

このドラマは見た目のかわいらしさは観ること妨げるということを教えてくれる。

観る視線にも耐えられる笑いはないものだろうか。

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2006年1月30日 (月)

笑いについて考える・その2~『笑い』(ベルクソン著)と『スイングガール』との親和性~

 哲学者ベルクソンの『笑い』を読んだ。しかしそれはまったく私の心に響いてこなかった。その理由の一番はベルクソンがその正体を表現しようとしている笑いの多くが、私が昨日ブログで批判した『スイングガールズ』的な笑いであったからだ。彼は「往来を走っていた男がよろめいて倒れる、そのことを通行人が笑う」という笑いを丁寧に分析する。要するに彼が分析しようとしている笑いは、私にとっては笑いでないことが多い『スイングガールズ』的な笑いなのである。
ということはベルクソンの言葉から『スイングガールズ』的な笑いについて、考えを深めることができるのかもしれない。そう思い、何度も何度も読み返してみた。

 ベルクソンは次のように語る。

◆笑いには反響がいるもののように思われる。笑いをよく聞いてみたまえ。それははきはきした、明瞭な、くっきりした音ではない。それは隣から隣へと反響しつつ長引いていこうとする何か、ちょうど山中の雷鳴のように、最初爆発すると、ごろごろと鳴り続けてゆく何かである。◆

 なるほど、確かにそうだ。多くのお笑い芸人が求めている笑い、それは隣から隣へと反響していくものだ。人が笑うときには、それも劇場のような所で笑うときにはまわりの空気が、笑いやすいものでなければいけない。笑いやすい雰囲気になると、人は面白いように笑う。笑いやすい雰囲気をつくるのは、ちょっとのことでまわりを気にせずに笑ってくれる人である。それには笑いに対してのハードルの低い人を笑わせるのが一番である。笑いに対してのハードルが低い人、それはまわりの存在を気にすることなく、笑うことができる人である。
まわりの存在を気にすることなく笑える人、そんな人の多くが一発芸の笑いが好きな人であるということは事実であろう。そんな人が、笑うと劇場の中の笑いに対してのこわばりがほぐれてくる。笑いやすい空気が生まれる。

◆笑いは現実のあるいは仮想の笑い手達とのある合意の、ほとんど共犯とでもいいたいものの、底意をひそめている。

笑いを理解するためには、笑いの本来の環境たる社会にそれをおいてみる必要がある。

笑いは必ずや共同生活のある要求に応じているものに違いない。笑いは必ずやある社会的意味を持っているに違いない。
(以上 『笑い』ベルクソン著 からの引用)◆

ベルクソンが笑いとしてあげるものにはまったく共感できないが、彼が提示する笑いとその笑いがもたらされる環境についての言及にはなるほどと思うところがある。
私は昨日のブログで『スイングガール』で、監督が笑いとして提示したもので私が笑いの要素としてはどうしても認められないものを示した。それは次のようなものである。

  1. 吹奏楽部の少年が大切な楽器の中に食べたものを吐いてしまう。
  2. 子供たちが下手な演奏している生徒たちに石を投げる。
  3. 主人公の少女が届けなければいけない弁当を一つ食べてしまう。
  4. 主人公の少女が家にあるものを勝手に持ち出して売ってしまう。
  5. 少女たちが弁当を腐らせ、それを食べた吹奏楽部の生徒を全員食中毒にしてしまう。
  6. イノシシに追いかけられ木に登った大柄な少女がそこからイノシシの上に落ち、イノシシの頭蓋骨にひびがはいりイノシシが死ぬ。

「死」や「不幸」がブラックな響きを持つわけでもなく、ストレートに笑いとして提示される。現代において、このような笑いはどのような社会的な意味を持っているのだろう。今後考えを深めていきたい。

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2006年1月29日 (日)

笑いについて考える その1 ~『スイングガールズ』~

 昨年『スイングガールズ』(矢口史靖・監督)をみた。ラストで『LOVE』が使われているというのがみた理由だ。当時、『LOVE』という題の劇を作成中であったから。映画の中で『LOVE』は演奏されるのではなく、エンドロールで流れるだけだった。
 さて、多くの人が笑い楽しんだというこの映画、矢口監督の『ウォーターボーイズ』が全くといっていいほど笑えず楽しめなかったので、笑えないだろうという予想を裏切ることはなかった。楽しめない。私一人楽しめないのなら、私が変人ということにもなろうが、幸いなことに?妻も全然笑えず、楽しめず。
 なぜ私たちはこの映画が笑いとして送り出している表現を笑いと感じないのだろう。それを考えてみた。
 そして、この監督と私たちでは笑いの概念が根本から違っているという結論に到達した。

ますこの監督が笑いとして提示しているもののいくつかを挙げてみよう。

  1. 吹奏楽部の少年が大切な楽器の中に食べたものを吐いてしまう。
  2. 子供たちが下手な演奏している生徒たちに石を投げる。
  3. 主人公の少女が届けなければいけない弁当を一つ食べてしまう。
  4. 主人公の少女が家にあるものを勝手に持ち出して売ってしまう。
  5. 少女たちが弁当を腐らせ、それを食べた吹奏楽部の生徒を全員食中毒にしてしまう。
  6. イノシシに追いかけられ木に登った大柄な少女がそこからイノシシの上に落ち、イノシシの頭蓋骨にひびがはいりイノシシが死ぬ。

1.を考えてみよう、自分のクラスでそのように吐いている生徒を見て笑う教師がいるだろうか。いたら大変である。その直後からそのクラスの担任をしていることはできないだろう。
◆それでは隣のクラスなら?
 ー もちろん教師失格である。
悲しいかな、友達が嘔吐することを笑う生徒は存在する。クラスの心が育っていない場合は、多くの生徒が笑うということも起こりかねない。その時は笑わなくても、後々笑いの題材で使うということも起きる。

◆道を歩いている人なら?
 ー教師なら笑うべきではないだろう。
 そう教師は現実の場で嘔吐する人を笑うことはほとんどない。では、そんな教師も『スイングガール』の吐く映像で笑ってしまうのはなぜか。おそらくそれは、吐くということが演技だからであろう。吐くというのは演技であり、その人が本当に苦しんでいるのではないということがわかっているから安心して笑うのである。

 ここで新たな疑問が沸き起こる。それでは、それが演技であるなら、「吐く」ということは笑いに繋がることなのだろうかということだ。私たちに関してはそれは「否」である。

 例え悪いイノシシであってもその「死」は笑いだろうか。石を投げることは「暴力」であるが、それは笑いだろうか。バラエティー番組でよく行われる罰ゲームでは、それを企画する側とその罰ゲームに大声で笑う観客の両方に凍りつく自分がいる。

 バナナで滑って人が転ぶ。これは笑いか?人の失敗は面白いというのは多くの人にとって真理である。私もそれが笑いの一要素となり得ることは認める。しかし、私は人がただバナナで滑って転ぶだけではおかしくない。私はバナナで滑って転びそうな人が月面宙返りをして見事に着地したらおかしい。きっと大いに笑うだろう。それは見下した笑いではなく尊敬を含んだ笑いである。(ちなみに私はプロ野球のファインプレーの特集は大好きだが、珍プレー特集は大嫌いでテレビを消してしまう)

 平田オリザはその著『演技と演出』でスイングガール的な笑いを一発芸の笑いと定義する。そしてそれは持続しても5分程度で終わってしまう瞬間的な笑いであり、決して演劇的な笑いではないという。一発芸の笑いは、幼児の下ネタと同レベルの笑いである。子どもかわいさに下ネタを笑い続けると、それが本当の笑いと認識する子どもが育つ。
  学校が荒れていると、そんな下ネタの落書きが目立ってくる。心が荒んでいると、そんな笑いばかりがはびこる。私は現実であろうと虚構であろうとそのような表現を笑いとは考えない。
 私はそんな一発芸ではない演劇的な笑いを提示したい。しかし、一発芸に慣れた人たちにはそれは笑いではないのだろう。

◆◆◆

笑いについて考えを深めたいと思い、哲学者ベルクソンの書いた『笑い』(岩波文庫)を一気に読んだ。

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2006年1月28日 (土)

『リンさんの小さな子』 号泣という宣伝が似合わない号泣本

 昨年読んだ本の中で一番心に残ったのは『リンさんの小さな子』(フィリップ・クローデル著 みすず書房)だ。読後、作家・川上弘美がこの話に号泣したと知った。事前にその情報を知らなくてよかった。号泣する本だと聞いていたら、私はこの本を手にしなかったはずだから(ただ、号泣したのがほかならぬ川上弘美なので、手にした可能性はあるが)。

 私は号泣することが嫌いではない。号泣するような作品に触れ、心から泣きたいと思っている。しかし、私は子どもの頃から号泣を宣伝文句にするような小説、映画、漫画に感動して号泣したという記憶がない(子どもの頃の『キタキツネ物語』、『ジョーイ』、中学時代の『ある愛の詩』、20代の『火垂の墓』など)。そのような数多くの経験から、最近の私は号泣が宣伝文句となっている作品には近寄らないのだ。

さて、『リンさんの小さな子』に私は号泣したか。答えは「否」。しかし、今の私には、号泣を宣伝文句にするには全く似合わないこの物語に、号泣する人がいるということが理解できる。『リンさんの小さな子』は、号泣が宣伝文句である多くの作品に号泣できなかった人が、号泣する可能性を持つ作品なのだ。

 物語は現在形で語られる。過去形はリンさんが故国を回想するときにのみ使われる。
 リンさんは戦争で家族を失い故国を追われた。そしてサン・ディブという生まれてまもない赤ん坊を抱いて、難民となって故国に戦争をもたらした国にやってきた。そこで彼はバスクという男と出会う。二人はまったく言葉が通じない。しかし、二人の心は通い合う。
バスクという男が言葉が通じないリンさんに、言葉が通じないからこそ語れる胸の内を吐露する過程で、心が浄化されていく描写が素晴らしく、読んでいる私の心も一緒に浄化されていった。

 読者はラストシーンを読み終えたところで、なぜこの作品の題名が『リンさんの小さな子』なのか理解することだろう。そして、一ページ目から読み返すことだろう。少なくとも私はそうした。そして、作者の企みにまんまとだまされたことに気がつくのだが、だまされたということは決して不快ではなく、爽やかな風となって心地よさをもたらすのだ。

 『リンさんの小さな子』は「珠玉の」という形容が似合う作品である。

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2006年1月27日 (金)

インフルエンザ

インフルエンザにかかってしまいました。タミフル飲みました。
先ほどブログが更新されましたが、今書いたのではありません(本当は昨日公開するものでした。学校休んだので、すでに書き終えていましたが公開を伸ばしました)。
私が利用しているココログは書きためて時間指定で公開することができるのです。
この後数日、ブログは更新されますが、すべて書き終えている内容です。インフルエンザなのに何してるの?と思われないように今のうちに言い訳しておきます。
これは、今書いてます。
明後日に関東中学校演劇コンクールの打ち合わせがあるのですが、行けなくなりました。困りました。教師という立場なので生徒にうつすため学校にも行けません。心苦しいです。
とにかく今は休まないと。それではおやすみなさい。(書くのに要した時間5分)

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浪漫(ゆめ)~さらば昨日よ~ 

 丸山和也弁護士は従姉妹の夫である。それほど遠くはない親戚で、超有名。当然、彼の出演する番組は見てみようと思う。正月に放送された、行列のできる法律事務所の特番で彼がCDデビューすることを知った。
 曲は「浪漫(ゆめ)~さらば昨日よ~」。作詞は荒木とよひさ、作曲はFace2fAKEという豪華スタッフによって創られている。
 番組でその曲を聴き、購入しようと思った。もちろん彼と親戚であるということは購入理由の一つではあるが、それは第一の理由ではない。第一の理由は歌詞が心に響いてきたことだ。

それが男の浪漫(ゆめ) 一度しかない人生(とき)
喧嘩するなら今 この命で

 私は卒業していく生徒たちに夢を語ってきた。今でも年賀状をくれる卒業生たちはそれぞれの夢について書いてくる。私は今でも夢=浪漫を大切にしている。そしてこれからも。
『浪漫』という曲はそんな自分に勇気をくれる曲だ。

追伸
発売を知ってすぐにAmazonに注文したのだが、発売から一週間以上遅れての到着となった。一緒に注文した「ミッシェル・ポルナレフベスト」が遅れをもたらしたようだ。エンヤの「アマランタイン」と川井郁子「嵐が丘」も購入した。

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2006年1月25日 (水)

肩書きについての考察~学校カウンセリング上級研修会終了~

 平成17年度学校カウンセリング上級研修会のすべての課程を修了した。カウンセリングの上級を終了したということは一つの肩書きとなる。
 今朝の読売新聞編集手帳にバーナード・ショーの肩書きについての警句が紹介されていた。

「小人は肩書きを汚し、中人は肩書きとともに現れ、大人は肩書きを邪魔にする」

 教師になったばかりの自分は、肩書きというものを嫌った。肩書きではなく中身で勝負することこそプロの教師の歩むべき道と考えた。しかし…
  今の私は肩書きは使いようで、肩書きに合った、または肩書き以上の自分があればよいのだと思っている。
 カウンセリング上級研修会に参加する前から河合隼雄の著作を読みあさるなどカウンセリングの勉強は独自で進めてはいたが、初対面の人に私がそのような知識をある程度もっていることを伝えるのは時間がかかる。カウンセリング上級修了者という肩書きによって、「私が上級終了程度の知識がある人である」という前提から対話を始めることができるということは、時間を短縮するという意味で有意義である。

 現在の私は肩書きとともに現れる中人に属することはできるのだろうか。将来、大人になれる日が来るのだろうか。ただ、大人になるには、肩書きが邪魔になるほどの大きな肩書きが必要なのだろう。

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2006年1月24日 (火)

雪の菅平 ~美は到るところにある~

美は到るところにある(アンリ・ファーブル)

菅平高原でスキー林間が行われた。生徒の実習の写真を撮る傍ら、雪の菅平の写真も撮った。私が美と感じる写真を紹介したい。PICT0020-1

ファーブルは問いかける「雪は見事なその六放射形について何を知っているであろうか」と。続いてファーブルは虫が作り出す美しい構造物に触れ、「虫には美を感ずる能力があるか」を問う。
ファーブルの「美は到るところにある」という言葉は次のように続く。「ただし、これはその美を認める能力のある眼があるということを特に条件としての話である」
ファーブルは美とは何かという哲学を突き詰めていき、最後には「答えに到達することはないだろう」と結んでいる。

PICT0023-1
私はなぜ自分が雪の創り出す世界に美を感じるのか説明することができない。しかし、それに美を感じられる眼をもった人間に生まれてよかったと思う。

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2006年1月21日 (土)

ダイサギ・コサギ 雪に白鷺

PICT0015-1雪に白鷺…色合いが互いに似て見分け難いこと、また目立たないことのたとえ(広辞苑)

さて、埼玉は今年初めての雪。私は雪が降ると無性に鳥が見たくなる。近くの古利根川に、車で出かけた。雪の中、幻のような白鷺の写真を撮ることができた。

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雪の中に佇むダイサギ

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雪の中に佇むコサギ

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雪の中を舞うダイサギ

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2006年1月19日 (木)

食の素材と演劇の関係 『魯山人味道』

北王子魯山人の著書『魯山人味道』が面白い。魯山人の道は味の道であり、それは演劇の道にも通じていると感じる。

共感その1 素材について

いよいよ料理を作る段取りになりました際において、是が非でも心得ておかなければならなぬことは、材料の吟味であります。美味しい料理も、立派な料理も、要は材料が根本でありますから、料理のよしあしは材料次第というモットーを堅持しまして、(中略)充分な関心を持ちたいものです。(中略)善良な材料さえ手に入れますれば、まあどうせんでも、すでに美味しい料理はできていると言いましても、過言ではありません。
材料の悪いのは、名料理人の手でいかに塩梅しましても、よい料理とはならないのです。

料理においての素材は、演劇においての脚本である。最近は中学校の演劇にインターネットから拾ってくる脚本を使うところが多いが、9割以上が善良な材料ではないため、多くの場合いかに塩梅しても、よい作品にならない。

共感その2 半可通について

世の中には、自分は味覚の通人である、と自認しながら、その実何もわかっていない人々がいる。いわゆる、半可通に属する連中であって、なにか賢い話を付け加えて押しつけなければ、美味しいものも美味しいとは言わない。
(中略)そこでこれらの手合いには、トリックを用いるのが一番よい。例えばここにある種の大根がある。こんな時、正直になもない大根ですと言わずに、これは尾張の大根です、と言ってすすめる。すると、彼は尾張の大根は美味しいという先入観念があるから、これは美味しいと自分だけの能書きつきで美味しいというのである。(中略)もともと自分の舌で正しく美味不美味を判断するのでもなく、深い経験者でもないから、人の悪い話だが、これにはどうしても、トリックを用いて、食わせるよりほかはない。これも一つの料理法である。

私は半可通に自分の演劇を理解してもらいたいと思わないので、魯山人がいう半可通のための料理法を使いたいとも思わないが、世の中の大半の演劇は半可通のために演じられているのではないかと思う。小説も映画も…

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2006年1月18日 (水)

『KITCHEN』 蜷川幸雄 美しい舞台

北王子魯山人の『魯山人味道』を読むと、料理と演劇の道はよく似ていると思う。例えば美について。魯山人は料理の美について次のように語る。

(料理における)美の問題であります。美しさのことであります。美的価値のない料理は、よい料理とは申されないのであります。ひとり料理にはかぎりませんが、眼に見て美しいに越したことはないのでありますから、この点、充分関心を持つべきであると思います。

演劇も美的価値のない演劇は、よい演劇とはいえない。しかし、美しいと感じる演劇に出会うことは少ない。そんな私が美しいと感じる演劇を提供してくれる数少ない演出家の一人が蜷川幸雄だ。ビデオで2005年4月にシアターコクーンで上演された『KITCHEN』(アーノルド・ウェスカー・作 蜷川幸雄・演出)をみた。1959年ロンドンで初演以降、世界22ヶ国、53都市で上演されてきたイギリス現代演劇の傑作と言われている作品だ。
作品は大繁盛しているレストランの厨房を舞台に、若者の世界を描いた群像劇だ。アーノルド・ウェスカーは「シェイクスピアにとってはこの世界が舞台であったろう。しかし、私にとってはそれは調理場なのだ」と自ら語っている。

さてこの脚本を蜷川幸雄がどのように料理するのか、興味津々であった。最近の私は演劇を通して「対話」について真剣に考えていることもあり、彼の演出する対話は不自然でわざとらしく聞こえる。人間はそんなふうには話さないと思ったりもした。若者たちの滑舌の悪さも気になった。しかし、厨房を動き回る若者たちの身体表現の美しさには、シルク・ド・ソレイユのサーカスを見るのと同質の感動を覚えた。
第一部の終わりの注文が殺到する厨房の激しい動き、それに登場人物達の対話とオーダーが入り交じる言葉の洪水。そしてそれが究極の速さに到達したときに舞台に訪れる突然の暗転。その衝撃。
滑舌が悪くたっていい。対話が不自然でもいい。蜷川幸雄の紡ぎ出す美しいシーンの存在が欠点と思われることさえも肯定へと向かわせる。

私は『KITCHEN』という蜷川幸雄の極上の料理を堪能した。

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2006年1月17日 (火)

『あらしのよるに』 続編がなければ

 『あらしのよるに』(木村裕一・作 あべ弘士・絵)が昨年末に映画として公開され、けっこう評判を呼んだ。私はこのシリーズの第一作である『あらしのよるに』が好きだ。3年前に購入し、学級文庫にも置いた。子ども向けとはいえ、中学3年が読むのに充分堪えうる内容であると感じたからだ。
 第一作のよさは嵐の夜、雷の嫌いな狼と山羊が真っ暗な中、小屋の中で出会い、お互いを誰だかわからないまま、一夜を過ごす。 お腹をすかせた二人は食べ物の話をする。食べ物という言葉が意味するのは、狼は山羊、山羊は草であり、二人の思い描く世界はすれ違ったままであるにもかかわらず、会話は見事に成立していく。その認識されないすれ違いを描いた表現は見事であった。
 そして、二人は相手が誰だかわからないまま明日の昼に会う約束をして別れる。
「あくるひ、この おかの したで、なにが おこるのか。このはの しずくを きらめかせ、ちょっぴりと かおを だしてきた あさひにも、そんなこと、 わかる はずも ない」
というエンディングが粋であった。
 しかし、残念なことに続編が出てしまう。続編は『あるはれたひに』。何とそこでは狼と山羊は友達になってしまうではないか。こうなるといけない。人間の世界の人間同士で語られるべき倫理が肉食動物と草食動物の間で語られるとき、表現と物語はやせ衰えてしまう。
ここかしこに狼が我慢しきれなくなって山羊を襲ってしまったのではないかという表現が現れる。洞くつの中から山羊の悲鳴が聞こえてくる。次の瞬間、洞窟内でけつまづいて怪我をした山羊をおぶって歩いてくる狼が現れるといった具合に。
その続編『くものきれまに』では山羊の友達まで現れ、物語はますますやせていく。

 昨日のブログでファーブルが記した「命の法則」について引用した。
 狼が山羊を食べることは悪徳ではない。それゆえ、結末はわからないまま終わりにすべきだった。映画は続編が中心になっているようなので見ることはないだろう。子どもが友情の大切さを学ぶにはよいのかもしれないが、そのことについても「Yes」とは言いにくい。
 教師である私は、生徒に友情の大切さも語る。しかし、狼が狼であること、羊が羊であることに畏敬の念を感じている私が、友情の物語を狼と狼の話で語ることはないとはいえないが、狼と羊の話で語ることはありえない。
 一昨日オオタカに襲われたコガモのことを紹介した。『あらしのよるに』を見た子どもが、狼・オオタカ(肉食)=悪、山羊・コガモ(非肉食)=善のような二分法を身につけないことを望みたい。

「Yes」といえない私の思いの根拠については、ファーブルが『昆虫記第五巻』(岩波文庫で出ている全集では第十分冊)の「蝉と蟻の寓話」という章で、明解に語ってくれる。長くなるのでここで引用はしないが、興味がある方はぜひそちらをお読みください。

 つぶやき
 宮澤賢治の『なめとこ山の熊』は偉大な物語である。

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2006年1月16日 (月)

『サバンナ 命を育む神秘の樹』 正月のテレビで一番心を動かされた番組

 正月はのんびりテレビを見ながら過ごした。『古畑任三郎シリーズ』を三夜連続で見た。イチローの演技力の素晴らしさに驚いた(作品は一夜目が一番よかったか?)。『南総里見八犬伝』を見た。S.E.N.Sの音楽が素晴らしく、テーマ曲が入っているCDを買った。いずれも年賀状の返事を書きながら見るにはよいドラマだった。

 そんなテレビ番組の中で最も心を動かされたのは16日(金)にNHKで放送された『サバンナ 命を育む神秘の樹』だ。マーク・ディーブル、ビクトリア・ストーン夫妻による秀逸な映像と作品の中に貫かれている自然を見つめる透徹した視線に心が震えた。ワンシーンたりとも見逃したくないと思える、年賀状を書きながらでは見ることのできない作品だった。

 夫妻は東アフリカのサバンナの川沿いに生育するクワイチジクの大木に集まる生きものをどの生きものにも寄り添わずに見つめる。イチジクの実はアフリカゾウをはじめ、キリン、サイチョウなど多くの生きものを引き寄せる。サイチョウの愛らしい子育ての様子と、その子どもが何万匹にも思える蠅の餌食になる凄まじい映像。自然のありのままを見つめようという姿勢が素晴らしい。
 イチジクが育つためには、一種類のイチジクコバチと呼ばれる小さなハチの存在が欠かせない。イチジクコバチは一生の大半をイチジクの実の中で過ごす代わりに、花粉を媒介することでイチジクに報いる。イチジクコバチは体を更に小さな線虫に寄生されながらその使命を果たす。

『昆虫記』のファーブルは「寄生虫いろいろ」の章で生の法則について次のように語る。

総じて生は限りなき略奪にほかならない。自然はおのれ自身を喰っている、物質はこの胃袋からあの胃袋へと過ぎながら生命を得ている。生物の饗宴では、おのおのはかわるがわるお客になり、ご馳走になっている。今日の食い手は、明日の喰われ手。一切衆生は生きているもの、生きていたもので生きている。いっさいは寄生生活である。人は偉大なる寄生者だ、食えるものすべての残忍な略奪者だ。(中略)それは悪徳だろうか。否、それは「一つのものの生は、他のものの死を要求する」という残忍な法則である。

夫妻の視線に敬愛するファーブルの視線を感じた。
昨日のブログにオオタカに襲われたコガモのことを書いた。夫妻の視線はオオタカ=悪、コガモ=善というような二分法を拒絶する、生態系を丸ごと捕らえた視線である。

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2006年1月15日 (日)

オオタカ現る!

ootaka-DSCN2315

久喜の諏訪地区でオオタカが出ているとの連絡を受け車でその場所に向かった。

そして、木にとまっている二羽のオオタカをじっくり見ることができた。1羽は成長メスもう1羽は若鳥だった。久喜市で木にとまっているオオタカを見るのは初めてのことだ。(写真は送っていただいたものです。許可を得て掲載させていただきました)

ootaka-2006 オオタカの存在は、久喜市にまだ豊かな自然が残っていることの証しとして特筆すべきことだ。連絡を受けたのが自宅ではなかったのでカメラを持って行けなかったのが残念。左の写真は二羽のオオタカが飛び立ったところを、同行した埼玉県生態系保護協会久喜支部長にカメラを借り、私が写したものである(こちらも先ほど添付で送っていただきました)。
 

PICT0062-1車に戻ると車の近くに羽根が散乱していた。どうやらオオタカが獲物をそこで食したらしい。獲物の主はコガモだった。
 オオタカがコガモを襲う。コガモの命がオオタカを生かす。これが自然界の命の法則である。
 緑の光沢がある美しい羽根を持ち帰って写真に撮った。

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贅沢は素敵だ ~ハワイ紀行6~

『いまなぜ青山二郎なのか』(白州正子 新潮文庫)に青山二郎の次のような言葉が紹介されている。

「ぜいたくな心を清算する(はぶく)要はない。ぜいたくに磨きを掛けなければいけない」

PICT0049  ハワイの旅は贅沢な旅だった。一番の贅沢はハカラウ森林国立野生動物保護区というハワイ固有の生物が生息している場所に、数え切れない観光客の中で妻と二人だけが訪れ、森を独占できたこと。

 次は世界で一番活発に活動しているキラウエア火山で溶岩を肉眼で見ることができたこと。私たちにふさわしい贅沢だと感じる。
山肌を流れる溶岩に向かって1時間程度歩いたが、現在は溶岩まで近づくのは一日の旅では難しいようだ。ハワイでは溶岩に近づくことは禁止されていないというところがすごい。生命を落とした人もいるという。

PICT0030-1

写真のように溶けたバターのような滑らかな溶岩はハワイではパホエホエと呼ぶ。ハワイの言葉の響きは面白い。

PICT0029-1.溶岩が海に流れ込んでいる所で水蒸気が上がっている。夜になるとこの水蒸気が溶岩の赤い色に染まった。暗すぎて写真には写せなかったが。

PICT0004-1 さて、3番目の贅沢は宿泊したホテル。ヒルトン・ワイコロア・ビレッジというスーパー・メガ・リゾートに泊まった。三棟のタワーが存在し、そのタワーからタワーへ、モノレールやクルーザーボートで移動するという大規模なホテルだった。自然を愛する人の多くは、宿泊や食事で贅沢をすることを避けるのだが、、私たちは自然を愛しつつも宿泊や食事でも贅沢がしたいと考えている。もちろんそれはお金を使うだけの贅沢ではない。贅沢の中で最も重視されるのは、心の贅沢だ。

先日上演した自作『青空』は戦争を扱った作品だ。その時代は「贅沢は敵だ」という言葉が庶民に浸透していた時代だ。贅沢が敵であるその時代は悲しい時代だった。私は「贅沢は敵だ」という標語に「素」という漢字を挿入した人の感性が好きだ。

ハワイの旅は、素敵な贅沢を楽しんだ旅であった。

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2006年1月14日 (土)

富嶽三十六景

雨の中、江戸東京博物館に葛飾北斎の『富嶽三十六景』を見に行った。
私が一番好きなのは『神奈川沖浪裏』。子供の頃、この作品が描かれた切手がほしくてしかたがなかったが、高くて買えなかった。
この作品はゴッホが弟テオに宛てた手紙で激賞し、ドビュッシーはこの作品にインスパイアーされ交響詩『海』を書いた。

『相州梅沢左』という絵には、現在では北海道でしか見ることのできないタンチョウが描かれている。そこに描かれている山は箱根にある山ということであるから、その作品が描かれた19世紀には、ツルが箱根周辺にもいたということなのだろうか。そんなことを考えた。

『富嶽三十六景』は北斎が70を過ぎて制作した作品であるということを知って驚いた。40代なんて若い若い、そう思って力が湧いてきた。

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ハワイ固有の自然を求めて2~ハワイ紀行5~

PICT0025-1 ハワイ固有の自然が残る森、ハカラウ森林国立野生動物保護区にはオヒヤの木と呼ばれる木が多い(オヒヤという響き、日本人の私にとってはちょっと心地よい響きであった)。その木は年に2回レフアという花を咲かせる。木と花が別の名前で呼ばれているのだ。この木と花は、女神ペレがその仲を引き裂いたという悲恋の伝説が存在する。

◆若くハンサムな若者オヒアはがキラウエアの地にやってきたとき、火の神ペレはオヒヤに一目惚れしてしまう。しかし、オヒヤにはレフアという恋人がいた。オヒアはペレの愛を拒む。怒ったペレはオヒヤを木に変えてしまう。嘆き悲しむレフアを、神が可哀想に思い、赤い花にしてオヒアの木に咲かせるようにした。◆

KOWA0011-1_edited そんなオヒヤの森には、スズメ大のかわいらしい鳥ハニークリーパー(蜜吸い)の仲間などがたくさん生息している。私たちはハカラウ森林国立野生動物保護区で3種類のハニークリーパーを見た。その3種類は次のような特徴を持った鳥である。

Amakihi アマキヒ 緑が混じった黄色、黄色が混じった緑といった鳥で。この個体数は多い。
 IIwi イーヴィー(写真…あまりに動きが素早くぼけてしまったのが残念) 全身と嘴の赤い鳥。大きな声でよく囀る。一番見たかった鳥であり、一番個体数の多い鳥でもあった。
 Apapane アパパネ イーヴィーよりも赤みの濃い小さな鳥。

ハワイのハニークリーパーの種類は他の地域と較べ圧倒的に多く、一種から五十種以上に進化したといわれている(ただその多くはすでに絶滅している)。もしダーウィンがガラパゴスよりも先にハワイに来ていたら、進化論はハワイで生まれただろうという学者もいるそうだ。

PICT0040-1

★ ハカラウ森林国立野生動物保護区での探鳥を満喫して車に戻ると、車の下に雛をつれたNene ネネがいた(左写真)。ネネはハワイの州の鳥である。カナダガンが進化(退化)した鳥で、水かきが小さく、飛ぶための胸の筋肉が落ちている。肉食獣のいないハワイならではの鳥なのだ。以前はもっと低い場所にも棲んでいたようなのだが、この鳥もマングースなどの生息する低い場所から追われ、高地でのみ生活する鳥になってしまったようだ。
ネネのたどった道を知って演劇について考えた。水辺で生活することがなくなったネネは、水かきが退化した。渡りをする必要がないネネは胸の筋肉が落ちた。使わないものは退化する。演劇もただその場その場を楽しむ作品ばかりになってしまえば、奥深さを感じることができるような味蕾は退化してしまうだろう。そういう意味で、演劇はネネにはなってはいけないのだと思う。
ただ、ネネはかわいい。特に今回のような子連れであれば、そのかわいさといったら…。

PICT0048-1帰り道、ハワイの山々が夕日を浴び美しかった。
写真はフアラライ山。 朝7時に出発してホテルに着いたのが夜7時過ぎ。12時間のハワイ固有の自然に出会う旅はとても充実したものとなった。Hawai'i Nature Explorersの長谷川久美子さんの「何としても楽しい時を過ごしてもらう」という姿勢は素晴らしい。次にハワイを訪れることがあれば、またお世話になりたい。

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2006年1月13日 (金)

ハワイ固有の自然を求めて1~ハワイ紀行4~

「ハワイ紀行2」でハワイ島では1200m以下の場所ではハワイ固有の自然がほとんど残っていないということを記した。それではハワイ固有の自然はどこに行ったら見ることができるのか。それは蚊のいない高所にあるハワイ固有の森ということになる。私たちはどうしてもそんな森に行きたかった。ハワイ島でもっと固有の自然が残っているといわれているのは、ハカラウ森林国立野生保護区である。そこはマウナ・ケア山の中腹にあり、許可がないと入ることができない。そのためHawai'i Nature Explorersの長谷川久美子さんに案内を依頼した。そしてハワイ固有の自然の存在する森に私たち夫婦二人だけを案内してもらうという、贅沢な旅が始まった。

PICT0006-1 長谷川さんの運転する四輪駆動車でマウナ・ケアの山頂に向かう2000mの高所の道を走る。途中でプエオと呼ばれているハワイ固有のフクロウの仲間に出会った。ハワイ島4日目にして初めてハワイ固有の鳥と出会うことができた。写真を撮ることにも成功した。

その後、1時間半悪路を走りハカラウ森林国立野生生物保護地区に到着した。ハワイの固有の自然が見える場所であるのに、許可制ということもあり観光客は誰もいない。私たちが訪れた12月29日にここを訪れた観光客は私たち夫婦だけだった。

PICT0041-1

さて、左の写真がそのハワイ固有の森である。煙って見えるのは溶岩が海に注ぐときに生じる蒸気によるものらしい。

この森での素晴らしい自然との出会いについては、明日のお楽しみにいとうことで(楽しみにしてくれる方がいればの話だが)。

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2006年1月12日 (木)

ハワイで出会った星たち~ハワイ紀行3~

私は星空が大好きだ。今回のハワイの旅では日本では見ることができない、星空との出会いも楽しみの一つだった。ハワイ島は天体観測の好条件に恵まれた場所で、マウナ・ケア天文台がある世界中の天文愛好者に知られた場所だ。日本の大型光学赤外線望遠鏡「すばる」はこの天文台にある。ここは晴天が多いこと、水蒸気が少ないこと、大気が安定していること、夜空が暗いこととなど天体観察の条件に恵まれている。

日本の天文ファンのあこがれの星の一つに龍骨座の一等星カノープスがある。日本の緯度では一月、二月に南の地平線に現れすぐ沈んでしまう。東京では高度二度にすぎず、現在の東京では見ることは不可能といってよい。
星の美しい随筆を書くことで私が敬愛している野尻抱影が、この星と初めてであった日のことを次のように書いている。

私が初めてこの星に対面したのは関東大震災の後だった。まだその頃は東京郊外の駒沢村だったが、夜警をやって、二月上旬の夜、雑木林の凍った路を拍子木を打って歩いていると、園芸学校の南のはずれに、電柱の灯りかと思ったほどの低さに、赤い大きな星を一つ発見した。

私はハワイの空にそのカノープスを発見した。カノープスを見るのは今回が初めて。星が好きではない人には、どれもこれも同じ星かもしれない。しかし、私にとってはカノープスはどの星とも違う、憧れの星なのだ。
オリオン座の下にうねうねと続くエリダヌス座(エリダヌスは神話に登場する川の名前)も、その中に存在する一等星アケルナルも確認できた。アケルナルを見るのもこれが初めて。冬空の銀河は夏のそれと比べ、濃い白色ではないが確認することができた。

日本ではその明るさからなかなか確認することができないオリオンが左手にかけているライオンの皮(オリオンの盾という人もいる)もしっかり見え、この星の数ならギリシア神話のオリオンの姿が浮かんでくると感じることができた。

私は降るような星空が大好きで、『降るような星空』という劇を書いた。ハワイ島で大好きな降るような星空、そして初めて見る星たちに出会えてよかった。

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2006年1月11日 (水)

ハワイで出会った美しくも悲しい自然 ~ハワイ紀行2~

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ハワイ旅行で私と妻が訪れたのはハワイ島のみだ。ハワイ島だけにした理由は、オアフ島やマウイ島に較べハワイ固有の自然がほんの少しであるが残っているからだ。
ハワイ島に着くと、さまざまな美しい鳥と花が迎えてくれた。写真に撮した黄色の鳥はサフラン・フィンチという鳥、赤い鳥はイエロー・ビルドゥ・カージナルという鳥。どちらも美しい鳥だ。しかし、どちらもハワイの固有種ではない。いずれの鳥も南アメリカから移入されたものだ。

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ハワイの熱帯の森で見ることができるハイビスカスやジンジャーなどの植物も外来種だ。そもそもハワイでは1200m以下ではハワイ固有の動植物はほとんど見られないという。美しい南国の風景に触れながら、なんともいえない悲しい気持ちになった。

いったい何がハワイの自然を絶滅へと追いやったのか。その理由の一つは蚊だという。ハワイにはもともと蚊がいなかった、蚊が人間と共にやってきて、そしてハワイの鳥たちを襲ったのだという、蚊に対しての免疫がないハワイの鳥は、蚊に刺されると2週間以内に死んでしまうのだという。そのため現在ハワイの鳥たちは蚊の存在しない高所の森にしか残っていないのだ。
二つめの理由はマングースやネズミの出現。まず家畜と共に入ってきたネズミが鳥を食べるようになり、そのネズミを駆除しようとして移入されたマングースはネズミではなくハワイ固有の鳥たちを食べ始めたという。日本の奄美大島と同じような過ちがここでも行われていたか。奄美大島ではハブ退治のために連れてこられたマングースが、特別天然記念物のアマミノクロウサギを食べている。物事は人間が描くシナリオ通りにはいかないということだ。
マングースの移入と同様の過ちが教育界でも起こっていると思う。しかし、それはここで論ずることはやめよう。

さて、外来種で埋め尽くされたハワイの自然、外来種ということを聞かされていなければエキゾチックで素敵な自然なのだが、外来種という事実がその感動を妨げてしまう。では、外来種で埋め尽くされたハワイの自然は、ハワイの自然ではないのだろうか。ハワイは地殻変動で遠い将来日本と陸続きになる可能性があるという、その時、ハワイの自然はどうなるのだろうか。
固有の自然とはいったい何なのか、固有でないということが私の美しさという感覚に影響を与えるとすれば、美しいという感覚とはいったい何なのか?

ハワイにはカラスがいない。正確には「野生には」という枕がつく。もともとは野生のカラスはいたのだが、次々と死んでいってしまい、現在は人の手で保護されているものしかいないのだ。それを野生に戻そうとしても、野生では生きていけないのだという。カラスも絶滅の危機を迎えれば愛される鳥になる。日本のカラスの現状と比較して、いろいろと考えさせられた。

ハワイとは私にさまざまな疑問を投げかけてくる島であった。
次回はハワイで出会った星について書く予定。
ハワイ固有の自然との出会いについては、その後報告したい。

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2006年1月10日 (火)

『青空』に寄せられた感想

一緒に劇を上演した久喜市内の演劇部顧問の方から、久喜中学校上演劇『青空』の感想が送られてきた。

 「青空」、とてもよかったです。もう、う~んとうなってしまいました。脱帽です。
壮大なスケールのジグソーパズルがあって、劇の進行に伴って、少しずつ隙間が埋まっていくのだけど、全体像がわからないうちに、一つ一つの魅力的なモチーフができてきて、それが終盤で、見事な絵になって完成するような感じでした。
 先生が事前に話していた、「戦争そのものを描かずに戦争を描く」ということはもちろん、花さんは、一度もでてこないのに、花さんという、戦争の時代を生きた魅力的な女性を、とても豊かに描かれていて、すごいなあと思いました。音楽もいいですねえ。
キャストは、その部の状況に応じて、人数は変えられそうだし、この劇が、全国のいろいろなところで演じられたら、素敵だと思います。それぞれの役の個性が、現代に生きる中学生の持ついろいろな気持ちを代弁していて、そういうのもすごいなあと思います。
 あの狭い空間の中で、あれだけの生徒を動かすのは、本当に難しいでしょうね。でも、どこのシーンもとても自然に演じられていて、声も必要以上に大きくなくて、日ごろの指導を、考えさせられてしまいました。
 生徒さんたちの演技は、ハーモニーを感じました。誰か、特に目立つ上手な子がいるというのでなく、ひとり一人が、リアリティを感じさせる演技をしていましたね。

私の作品を深いところで感じてくれる人がいるということ、そのような感性の味蕾を持った人がいるということが、うれしい。

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2006年1月 9日 (月)

味覚と料理・感性と劇 ~ハワイ紀行1~

 年末にハワイを旅して、ハワイの食事風景に悲しみを覚えた。山盛りのフライドポテト、クリームをふんだんに使ったケーキ、スパイスのききすぎる味付け。イタリア料理、地中海料理、中華料理という料理の違いはあっても、どれもハワイのという枕がつく大味な料理なのである。

 長年ハワイに住んでいる日本人ガイドが次のようなことを語った。「ハワイで日本人にとって美味しい料理を探しても無駄です。ハワイの人たちにはそれを美味しいと感じる舌が存在しませんから」

 微妙な味の違いを感じるだけの味蕾が存在しなければ、そこでどんな素晴らしい料理、つまり味覚の器官を最高度まで働かせる必要のある料理を提供しても、そのよさが評価されることはないということだ。
北王子魯山人は孔子の次の言葉をたびたび引用する。

「人飲食せざるは莫()し、能()く味を知るもの鮮(すくな)きなり」

そして、料理を突き詰めていく魯山人は次のようなことを考える。

「美味しい料理は長年続けての習慣がつかなければ、美味しいとわかるものではない。(中略)食通といわれる人でも、種種の段階があるくらいだから、一般ではなおさらである。結局、これは書画の場合と同じように、分かる人のみに分かるのであろう」

 ハワイの料理に触れながら、私は演劇のことを考えていた。劇の微妙な味の違いを感じるだけの味覚が存在しなければ、そこでどんな素晴らしい劇、つまり味覚の器官を最高度まで働かせる必要のある料理を提供しても、そのよさが評価されることはないということである。

 よい味覚はよい料理を育てると同時に、よい料理がよい味覚を育てる。それ同様によい感性がよい劇を育てると同時に、よい劇がよい感性を育てると考えたい。科学が味覚は訓練することによって鍛えられることを証明している。昨日、書いたように、私はそれを秋刀魚料理のレベルで真剣に考えていきたいと思っている。

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2006年1月 8日 (日)

『青空』 2006関東中学校演劇コンクールへ

埼玉県東部地区中学校冬季演劇発表会が終わった。この大会に参加したすべての学校が、この発表会の意義を理解し、発表の場があることを喜んだ、そんな大会となった。『青空』を上演した久喜中学校演劇部は関東中学校演劇コンクールの埼玉県代表として選出された。『青空』上演での観客の反応はさまざまだった。昨年の『なっちゃんの夏』そして今回の『青空』。最近の私の劇は、明らかにストイックな方向性に向かっている。そのストイックな方向性が、観客の多様な反応を生みだしている。

北王子魯山人が『魯山人味道』に記した次のような言葉が頭をよぎる。

「料理も真剣になって考えますと、段々頭が精密になってきます。つまり、精密な頭がかける場合は、美味しい味ができないということであります」

魯山人は河豚をこよなく愛する、そして河豚の味をすっぽんと比べ次のように語る。

「すっぽんも美味しいものであるが、このふぐに較べては、味があるだけに悲しいかな一段下である。否、その味が味として人に分かるから、まだそれは、ほんとうの味ではないのである。すなわち、無策の作、無味の味とでも言おうか、その味そのものが、底知れず深く調和がとれて、しかも、その背後に無限の展開性を持っているものでなければ、真実の美味ではなさそうである」

  私は演劇を突き詰めていこうとしている。突き詰めていこうとすると、どうしてもその背後に無限の展開性を持った無味の味に惹かれていく。しかし、無味の味を最高と感じるところまで進めていくことには敢えてストップをかけたい。
  私は河豚よりも秋刀魚が好きだ。そしてステーキよりも秋刀魚が好きだ。ただ、秋刀魚ならなんでもいいというわけではない。秋刀魚の味も千差万別であり、それは十分追求しがいのある食材である。暴力的比喩を用いて、分厚い量を誇示したステーキが多くのハリウッド映画で河豚が『サクリファイス』や『ノスタルジア』を作った後期のタルコフスキーであるとすれば、私は量を誇示したステーキや、無味の味を持った河豚ではなく、極上の秋刀魚料理で客をもてなしたいと思う。
3月の発表までに『青空』という食材をもう一度吟味し直さなければならない。

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2006年1月 6日 (金)

『青空』 完成までの読書と戦争の夢

 『青空』完成のための読書を記録しておこう。

『茜色の戦記』(津村節子 新潮社)
『少女たちの昭和史』(秋山正美 新潮社)
『太平洋戦争下の学校生活』
(岡野薫子 平凡社)
『きけわだつみのこえ』(岩波文庫)
『第二集きけわだつみのこえ』(岩波文庫)
『子どもたちの太平洋戦争』(山中 恒 岩波新書)
『暮らしの中の太平洋戦争』(山中 恒 岩波新書)
『接近』(古処誠二 新潮社)
『リンさんの小さな子』(フィリップ・クローデル みすず書房)
『別冊太陽 子どもの昭和史』(平凡社)
『昭和 二万日の全記録6巻太平洋戦争』(講談社)
『昭和 二万日の全記録7巻廃墟からの出発』
(講談社)

 資料として最も役に立ったのが『太平洋戦争下の学校生活』、最も感動したのが『リンさんの小さな子』。ただ『リンさんの小さな子』の感動は私にとっては号泣するような感動ではなく静かに心に沁みる感動であった(作家・川上弘美がこの作品を読んで号泣したことは知っている)。私の『青空』もそんな波紋のように心に広がる感動を与えられる作品になればよいと思う。 

 このところ、太平洋戦争に関する本ばかり読んでいたので、戦争の夢をよく見る。いい夢であるはずがない。特に正月に見たい夢ではない。しかし、実際の戦争を体験した人たちのことを考えれば、戦争を夢の中でだけ体験する自分は幸せなのだと思う。

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2006年1月 5日 (木)

『青空』 今日までの道程

 今回は新作は無理だと思った。自分が抱えている学校での仕事の量、仕事は学校だけで終わる量ではなかった。そんな中、脚本に費やすことのできる時間を考えると無理と考えるしかなかった。部員が新しい自分たちだけの作品をやりたいと思う気持ちも理解できた。その新しい作品を私に創ってほしいという気持ちはうれしくもあった。

 文化祭が終わった11月の初めに部員を集めた。その時、私の頭には、ただおおざっぱな構想があるだけだった。本当におおざっぱな構想だった。舞台は暴風雨洪水注意報が出ている文化祭前日の教室。その教室が太平洋戦争に関する展示に囲まれているということ。ラストは携帯電話が重要な役割を果たすだろうということ。それくらいだった。台詞は一行も書かれてなく、題名も決まっていなかった。
 このままでは、作品が出来上らないことから劇の発表そのものができなくなってしまう可能性があることを正直に話した。それでも新しい作品を待っていいのかと。
 部員の心は揺れた。その揺れを見て、以前私が書いた作品をやるということになると思った。しかし、最終的に、部員はまだ見ぬ新しい作品に期待したいという選択をした。私の健康も気遣い「先生さえ無理でないなら」という言葉も添えて。もし、作品の出来が遅れ、2年連続で出場している関東大会に出場できなくなっても、それはそれでいいというのだ。部員たちのその思いが、結果的に私の創作意欲を高め、最終稿の完成に辿り着くことができた。
 制作途中、部員に伝える題名は何度もかわった。最初につけた題名は『青いくるみ』。宮澤賢治の『風の又三郎』の中に出てくる『風の歌』からとったのだが、文学の素養のない一部の人には危い響きとして感じられる可能性があるという指摘を受け、その題名は捨てた。次に考えたのが『暴風雨洪水警報』。劇中の天気をそのまま題名にしたという面白味のなさにその題名は数日で消滅した。次に考えたのが『Love』。その題名は劇中で使われる予定だった歌からとったので、その歌が劇の構想とフィットしなくなり、劇中で使われなくなったと時、必然的に消えた。そして『私の青空』という題名を経て、最終的に『青空』という大変シンプルな題名に落ち着いた。

 第一稿ができたのが12月24日。その日の午前9時にできた原稿を、午前10時に印刷し、午前11時に部員に配った。その日までに前半3分の2は渡し練習していたので、その日は全体の3分の1に当たるラストを練習し、その日の5時30分に台本を持ちながら通し練習をした。たくさんの保護者がその通しをみに来た。ラストで、演技をしている生徒の目から涙がこぼれる。保護者の目にも涙が。はじめての通しなのに、というかはじめての通しだからこその、透明感あふれる空間が生まれた。終わった後、二年生部員の一人一人が、それぞれの言葉で、台本を創りあげたことへの感謝の言葉を言いに来てくれた。苦しみながらも新作を創ってよかったと思った。
『青空』、1月8日()に本番を迎える。

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2006年1月 4日 (水)

青空

一ヶ月ちょっと前のブログに新作の題名は『Love』となるだろうと書いた。しかし、そうはならなかった。新作の題名は『青空』。今日最終稿を書き上げた。

話は教室の中だけで進行していく。この物語の中で重要な位置を占めるのが戦前に人気が出て、戦時中に聞くことを禁止された『私の青空』(原題『My Blue Heaven)。井上ひさしが戦争を扱った戯曲『きらめく星座』のラストに使った曲である(女優がラストでそれを歌った)。私はクロスビーが歌う『私の青空』を使用する。『私の青空』という題名にも惹かれたのだが、NHKのドラマで同名のものがあることを知り、『青空』というシンプルな題名でいくことにした。

さて、この脚本、どんなふうに説明したらよいだろう。

『青空』は太平洋戦争を扱ったドラマだが、登場人物は現代の中学生である。
『青空』は太平洋戦争を扱ったドラマだが、それ以上に現代のドラマでもある。

題名は『青空』だが、劇の第一部は大雨、第二部は暴風雨と天気が青空になることはない。

私はこのドラマで過去にタイムスリップはしないが、まるでタイムスリップをしたような不思議な感覚をもたらす世界を創り上げようと試みた。

全体構成は次の通り。

題名『青空』

第一部       大雨洪水警報
①大雨
②警報

第二部       暴風雨洪水警報
①暴風雨
②神風
③落雷
④停電
⑤青空

第二部のラストはずっと停電の状態で劇が進むという、中学生の演劇としてはかわった部類に入るであろう劇である。戦争反対を声高で訴えるドラマではない。これは戦争の時代を生きぬいた若者と、現代の若者どちらにも共通する魅力を描いたドラマである。手応えは感じている。

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