昨年『スイングガールズ』(矢口史靖・監督)をみた。ラストで『LOVE』が使われているというのがみた理由だ。当時、『LOVE』という題の劇を作成中であったから。映画の中で『LOVE』は演奏されるのではなく、エンドロールで流れるだけだった。
さて、多くの人が笑い楽しんだというこの映画、矢口監督の『ウォーターボーイズ』が全くといっていいほど笑えず楽しめなかったので、予想はしていたが笑えない、楽しめない。私一人楽しめないのなら、私が変人ということにもなろうが、幸いなことに?妻も全然笑えず、楽しめず。
なぜ私たちはこの映画が笑いとして送り出している表現を笑いと感じないのだろう。それを考えてみた。
そして、この監督と私たちでは笑いの概念が根本から違っているという結論に到達した。
ますこの監督が笑いとして提示しているもののいくつかを挙げてみよう。
吹奏楽部の少年が大切な楽器の中に食べたものを吐いてしまう。
子供たちが下手な演奏している生徒たちに石を投げる。
主人公の少女が届けなければいけない弁当を一つ食べてしまう。
主人公の少女が家にあるものを勝手に持ち出して売ってしまう。
少女たちが弁当を腐らせ、それを食べた吹奏楽部の生徒を全員食中毒にしてしまう。
イノシシに追いかけられ木に登った大柄な少女がそこからイノシシの上に落ち、イノシシの頭蓋骨にひびがはいりイノシシが死ぬ。
1.を考えてみよう、自分のクラスでそのように吐いている生徒を見て笑う教師がいるだろうか。いたら大変である。その直後からそのクラスの担任をしていることはできないだろう。
◆それでは隣のクラスなら?
ー もちろん教師失格である。
悲しいかな、友達が嘔吐することを笑う生徒は存在する。クラスの心が育っていない場合は、多くの生徒が笑うということも起こりかねない。その時は笑わなくても、後々笑いの題材で使うということも起きる。
◆道を歩いている人なら?
ー教師なら笑うべきではないだろう。
そう教師は現実の場で嘔吐する人を笑うことはほとんどない。では、そんな教師も『スイングガール』の吐く映像で笑ってしまうのはなぜか。おそらくそれは、吐くということが演技だからであろう。吐くというのは演技であり、その人が本当に苦しんでいるのではないということがわかっているから安心して笑うのである。
ここで新たな疑問が沸き起こる。それでは、それが演技であるなら、「吐く」ということは笑いに繋がることなのだろうかということだ。私たちに関してはそれは「否」である。
例え悪いイノシシであってもその「死」は笑いだろうか。石を投げることは「暴力」であるが、それは笑いだろうか。バラエティー番組でよく行われる罰ゲームでは、それを企画する側とその罰ゲームに大声で笑う観客の両方に凍りつく自分がいる。
バナナで滑って人が転ぶ。これは笑いか?人の失敗は面白いというのは多くの人にとって真理である。私もそれが笑いの一要素となり得ることは認める。しかし、私は人がただバナナで滑って転ぶだけではおかしくない。私はバナナで滑って転びそうな人が月面宙返りをして見事に着地したらおかしい。きっと大いに笑うだろう。それは見下した笑いではなく尊敬を含んだ笑いである。(ちなみに私はプロ野球のファインプレーの特集は大好きだが、珍プレー特集は大嫌いでテレビを消してしまう)
平田オリザはその著『演技と演出』でスイングガール的な笑いを一発芸の笑いと定義する。そしてそれは持続しても5分程度で終わってしまう瞬間的な笑いであり、決して演劇的な笑いではないという。一発芸の笑いは、幼児の下ネタと同レベルの笑いである。子供かわいさに下ネタを笑い続けると、それが本当の笑いと認識する子供が育つ。
学校が荒れていると、そんな下ネタの落書きが目立ってくる。心が荒んでいると、そんな笑いばかりがはびこる。私は現実であろうと虚構であろうとそのような表現を笑いとは考えない。
私はそんな一発芸ではない演劇的な笑いを提示したい。しかし、一発芸に慣れた人たちにはそれは笑いではないのだろう。
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笑いについて考えを深めたいと思い、哲学者ベルクソンの書いた『笑い』(岩波文庫)を一気に読んだ。
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