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2005年10月に作成された記事

2005年10月23日 (日)

紅葉と雪の那須

PICT0010-1 10日前に訪れた那須に昨日から泊まりがけで出かけた。昨夜は雷を伴う猛烈な雨が降った。そして今朝、那須の山々を見ると茶臼岳と朝日岳が雪化粧をしていた。
今日は紅葉と雪のコラボレーションを楽しむことができた。季節は冬へと向かっているようだ。

PICT0014-1旅館では仕事と読書。旅の時くらい仕事をやらずにのんびりしたいと思いはするが、残念ながらそうもいかないところがつらいところだ。

湯本香樹実 の『ポプラの秋』読了。

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2005年10月17日 (月)

『西の魔女が死んだ』 銀龍草(ギンリョウソウ)

PICT0051 昨日紹介した『西の魔女が死んだ』(梨木香歩 作)にはキュウリグサと共にもう一つ印象深い植物が登場する。主人公が林の中にある穴の中に落ちたとき、その植物が穴の中一面に咲いているのだ。その植物は物語の中で次のように表現されている。

◆穴の脇は更に深い洞のようになっていて、その一面に美しい銀色の花が咲いていたのだ。暗い林の奥の、そのまた暗い、ほとんど陽も届かないはずの場所に。その植物は二十センチくらいの、葉を持たない銀白色の鱗をつけた茎の先に、やはり銀細工のような小さな蘭に似た花をつけていた。それが何十本となく、まるで茸かつくしのように地面から生えているのを見るのは不思議な光景だった。

山の植物を少し知った人なら、この描写でこの花が銀龍草(ギンリョウソウ)だとわかるだろう。この小説の他の植物は片仮名で表現されているのに、このギンリョウソウは銀龍草にギンリョウソウというルビが振ってある。確かに漢字で表現したくなる素敵な名前の植物である。私の幻の森にふさわしい幻のような花だ。

※写真 銀龍草(2004年6月 駒止湿原にて撮影)
この花について以前に書いた日記

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2005年10月16日 (日)

『西の魔女が死んだ』 キュウリグサ~さりげない自然への愛~

PICT0062_edited 『西の魔女が死んだ』(梨木香歩 作)という小説は生命を扱った素敵な物語だった。シジュウカラ、エナガ、コガラ、ホトトギス、ホオノキ、クサノオウ、カヤツリグサたくさんの生き物の名前が登場する。その生き物がどんな生き物か知らなくてもこの小説を楽しむことはできる、しかしその生き物の名前が映像として浮かぶとき、この物語は更に面白いものになる。

主人公の少女はサンルームの床のれんがの隅に生えている小さな雑草に興味を持つ。そしてそのワスレナグサを小さくしたような青い花にヒメワスレナグサという名前を付ける。素敵な名前だ。この花の正式名がキュウリグサであることは最後で提示されるが、この物語に心を動かされた人はこのキュウリグサは知っておく必要がある。もむとキュウリのような匂いがするというキュウリグサ(試してみたが、そういわれればキュウリの匂いという気もする、その程度の匂いだと私は感じている)、私の好きな花の一つでもある。都会、田舎に関わらず日本中の平地のどこでも見ることができる花だが、とても小さいのでこの花に目を止める人はほとんどいない。
※写真 キュウリグサ(2005.5 自宅周辺で撮影)

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ハロルド・ピンター ノーベル文学賞受賞 20年前のアンダーライン

イギリスの劇作家ハロルド・ピンターがノーベル文学賞を受賞した。20年前に買った『ハロルド・ピンター全集』を書棚の片隅から引っ張り出して、彼の戯曲と演劇及び戯曲について語ったことを読み直した。読み直した戯曲は『料理昇降機』(昨年シスカンパニーが『ダム・ウェイター』のタイトルで上演)、『風景』『沈黙』。以前の私もそうだったが今の私も『沈黙』が一番心に残った。何気ない会話で構成される、何気なくない詩的な表現が心地よい。

彼が講演で戯曲について語った『劇場のために書くこと』『ハンブルグにおけるスピーチ』は、20年前の私が引いたアンダーラインで埋め尽くされていた。あまりにアンダーラインが多くどれが特に心に残ったのか分からないほどだ。20年前の私はこんな文章に心を動かしたのかという懐かしさでアンダーラインを辿った。そして、今もそのアンダーラインを引いた箇所は私の心を動かすものであった。今でも心動かされるいくつかの言葉を紹介したい。そして、そこから今の自分をみつめてみたい。

◆私の考えによれば、リアルなものとリアルでないもの、真なるものと偽なるものとの間には、厳密な区別はありえないのです。ある事柄が真か偽かどちらかであるとは必ずしも言えないのであり、それは真であってしかも偽だということもあるのです。(『劇場のために書くこと』)

そう、この言葉を愛するからこそこのブログのタイトルも『幻の森通信』となるのである。私にとっては幻はリアルなものとリアルでないものを宙づりにした、真であって偽であり、偽であって真であるそんな世界である。

◆私の考えでは、人間は沈黙によって(語られないことによって)極めてうまく意思を疎通させており、また、現実に起こっているのは、絶えざる回避である(自らのことは自らの内に秘めておいて他人に知らせまいという必死の試みである)ということになります。意思の疎通とはあまりにも恐ろしいものなのです。他人の人生に入り込むのは恐ろしすぎます。他人に向かって自己の内部の貧しさをさらけ出すのは、考えただけでも身の毛のよだつことです。(『劇場のために書くこと』)

私が関わっている中学校演劇の世界に存在する脚本のほとんどは、自分の思っていることを思っているままに語る語り口で満たされている。自分の思っているのと反対のことを語るときも、あまりにわざとらしくそれが透けてしまう語り方をするので、思っていることを話しているのと何ら変わりはない、そんな対話の数々で満たされている。中学校演劇に限ったことではなく、テレビドラマでのほとんどがそんな会話で満たされている。私は、そんな世界とは違ったものを描こうとしてきた。しかしこれを読んだ当時の20年前の私はそれができなかった。もちろん今もそれができているというわけではない。しかし、20年前よりはこの言葉が理解できるようになったとは思う。

◆(私は)目下何も書いてはおらず、また何も書けない状態にいます。なぜなのか分かりません。これが極めていやな気分であることは分かっていますが、一方、あえていうなら、私は何にもまして、もう一度空白のページを埋めてみたい、そして指先を通じての誕生というあの奇妙なことが起こるのを感じてみたいと願っています。(『ハンブルグにおけるスピーチ』)

私は今新作を書くことで苦しんでいる。全然書けないでいる。私ももう一度空白のページを埋めてみたいと思っている。そんな私にとってハロルド・ピンターのノーベル文学賞受賞は、刺激的な出来事となった。

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2005年10月15日 (土)

『映像詩 里山~命めぐる水辺』 しずくの中の世界

NHKスペシャル『映像詩 里山~命めぐる水辺』をみた。テレビ番組の国際コンクールの中でも権威があるといわれている「イタリア賞」をはじめ数々の賞を受賞した作品だ。
素晴らしかった。蛙の目に映る花火、雫の中に映し出される里山の風景に大江健三郎が少年時代書いた詩を思い浮かべた。

雨のしずくに
景色が映っている
しずくのなかに
別の世界がある

単に自然の美しさを描いただけではない、その描き方の素晴らしさ。この作品は極上の芸術である。このような作品に触れると「どんな芸術も自然の素晴らしさには勝てない」などという言葉が嘘であるという確信が持てる。自然と人間・人工は対立概念ではない。自然が創り出す芸術は素晴らしい。しかし、人間が創り出した芸術もそれに負けず劣らず素晴らしいものだ。私はどちらの芸術も愛している。

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2005年10月14日 (金)

『ハルとナツ』 静かで深い感動

ビデオで撮っておいた『ハルとナツ』を見終えた。今、静かで深い感動が私をとらえている。数多くのテレビドラマで持ち続けていた興味が最後の最後に裏切られ、萎れてしまうという経験は多々あったが、今回は、そのようなことがなかった。 

欠点もないわけではない。回想を中心に構成されるドラマにあるパラレプシス(語り手の記憶にはないはずのものが映像で現れる。例えば、ナツが出した手紙を伯母が盗み読みし、その中に入っていたお金を取ってしまうシーンなど。『タイタニック』などにも存在する)も存在する。しかし、パラレプシスがドラマの欠点以上にドラマに力を与えるものであれば、それは欠点とは言えないのではないかと私は思っている。私もパラレプシスの存在を理解しながらそれをあえて劇中に用いたことが何度かある。私はパラレプシスのようなウソがあってもそこにいかにリアリティーを保てるか、それが大切なのではないかと思う。 

さまざまな涙のシーンが素晴らしかった。
10月10日に書いたハルとナツの姉妹の別れのシーンでの絶叫が自然な絶叫となって心に迫る奇跡の演技。そしてナツが牛飼いの徳治の死に涙するシーンでの絶叫とは違った抑えに抑えた涙。ハルの結婚式でのハルの父・忠次のうめきで表される喜びの涙。
美しい音楽をバックに「さあ泣きなさい、さあ泣きなさい」という凡庸なドラマに必ず登場する押しつけの涙がなかった。

ハルとナツの子ども時代を演じた2人の子役の素晴らしさは先日書いたが、他の役者も素晴らしかった。とりわけ父役の村田雄浩の演技は出色。彼だけは脚本の蓮田壽賀子が指名したというが、それに十二分に応える演技であった。

見終わってからしばらくテーブルから離れることができなかった。涙がとまらなくて困った(隣で妻も見ていたので)。映画館の暗闇で素晴らしい映画を見終えたあと経験するあの感動があった。

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2005年10月12日 (水)

錦秋の那須・姥ヶ平

DSCN2430-1今日は秋休みの最終日。年次有給休暇を取って那須・姥ヶ平に出かけた。
美しかった。今までこれほどの紅葉を見たことがあっただろうか。そんな素晴らしい紅葉だった。
その素晴らしさを形容する言葉が見つからない。

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2005年10月11日 (火)

東京大学奇術愛好会第35回学外発表会「Magic meets Arts」

昨日、東京大学奇術愛好会第35回学外発表会「Magic meets Arts」を観に池袋豊島公会堂を訪れた。

先日、東京大学奇術愛好会のOBである私の教え子が「今年の発表会は演出陣に優秀な人材が揃い、自分も相談役としてアイディアを出し、極めて演劇的なショーが実現できそうなので是非来てほしい」と連絡してきた。彼は中学校卒業後現在に至るまで欠かさずといっていいほど毎回私たちの劇(中学生が演じる演劇)をみに来ている。そして、本人のいうところでは私たち中学生の劇から多くのことを学び、今回の作品にはその影響を垣間見ることができるのだという。胸がわくわくしてきた。久しぶりに学生時代の私が夢中で取り組んだマジックの世界に浸りたいとも思った。というわけで、ときめきを胸に発表会に足を運んだというわけだ。

ステージが終わる。夢中で拍手を送っている自分がいた。会場に響き渡る拍手の大きさから観客が十分満足していることが伝わってきた。

少女が豊島公会堂=美術館に迷い込み、観客がいる現実空間が虚構の世界に吸い込まれていくという趣向は、私の影響というよりシルク・ド・ソレイユの影響を強く感じたりもしたのだが、観る側と演じる側の壁が取り払われ、客席と舞台を一体化させるという構成は私がずっととり続けているスタンスであり、この作品の中に私の存在の一部が刻み込まれている可能性を思うと、私を全く知らない現役の学生にはまったく迷惑な話かもしれないが、少しうれしいような誇らしいような気持ちになり、私はこの美術館に迷い込んだ少女とともにArtとしてのマジックの展示品を堪能したのだった。

全体的な演出を通しマジックの発表会にマジック以外の多様な芸術的要素が盛り込まれるという制作者の頭脳の柔らかさに感心したりもした。というよりも彼らはマジックだけの知識から創られるマジックショーがいかに貧相なものになるかをすでに知っている。
私は若者たちのショーを楽しみながら学生時代を思い出していた。現在、日本の第一線のプロマジシャンとして活躍している藤山新太郎氏の後見を務め、時に自宅に寝泊まりもさせてもらいつつマジックを学んだこと。将来Mr.マリックとしてデビューすることになる松尾昭氏のもとにバイト料を持ち込み、頼み込んでマジックを教えてもらったこと。あの頃の私の熱い思いと同質の思いをこの日の舞台で感じることができた。

創造のエネルギーにあふれた若者との繋がりは大切にしなければならない。また影響を与えつつ与えられるという関係も大切にしたい。発表会会場で教え子を通して知り合った魅力的な若者たちと再会することができた。そして思った「いつまでも若者たちに影響を与えられるように、自らも学びを続けさらに深みを増していかなければならない」と。

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2005年10月10日 (月)

田園の散策

DSCN2360-1 朝起きたら雨が音を立てて降っていた。雨でなければ、高尾山に秋の花を楽しみに出かける予定だった。雨に濡れた草花も好きなので小雨程度なら出かけたかったが、音を立てて降る雨では…。
午後になって雨があがったので、近くの田園を散策した。田圃にたまった水の中から青い花が顔を出していた。コナギの花だ。田圃ならどこにでも咲いている花だが、あまり注目されることはない。
こんなに美しくかわいらしい花なのに。

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『ハルとナツ』 第1回「姉妹」 

絶叫型のドラマが嫌いだ。恋人の死、友との別れ、死や別れはつらく悲しい出来事だ。しかし、そこで役者が絶叫して泣くと、私の心はそんな絶叫に反比例してドラマから離れていく。特に大人の絶叫は見苦しい。私は誇張演技で彩られた「迫真の演技」「感動の名場面」が好きではない。 絶叫にはそれに似合う年齢というものがある。もし絶叫が許される世代があるとすればそれは小学生低学年までではないだろうか。家の周辺では演技ではない子どもたちの絶叫をしばし耳にする。しかし、そんな子どもをドラマの中で演じきれる子役は多くはないだろうし、自然な絶叫を演出できる監督もそう多くはないと思われる。 絶叫シーンに思いを馳せれば、作られた悲しみに心が醒めたという記憶ばかりが甦る。
ところが、先ほど奇跡のようなシーンを目にしてしまった。そんな奇跡のシーンを生みだしたドラマは、NHKが5夜連続で放送した『ハルとナツ ~届かなかった手紙~』(橋田壽賀子脚本)。放送中は、仕事がピークを迎えていたため、録画して昨日から見始めた。

ブラジルへの移民を決意した、ハルとナツの家族。しかし出発の直前、神戸で妹のナツはトラホームと診断され日本にただ一人残らなければならなくなる。ハルを乗せた船がブラジルへと旅立とうとする場面で、二人の絶叫による別れが演じられる。港から離れていく船に向かってナツが叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。それは演技とは思えない、自然な叫びだった(ナツを演じていたのは志田未来。『女王の教室』にも出ていました)。
回想としても何度も何度も使われるこのシーンは、繰り返しに耐えられるだけのクオリティーを持ち、繰り返される度に涙を誘う。そこに存在した役者一人一人があの世界を信じ、その世界に生きたからこそ生まれたシーンだったと思う。
それを導いた監督にもあのシーンを見事な映像につくりあげたカメラにも拍手を送りたい。第2回までを見終えた段階で、まだ心はときめいている。第5話までこのときめきが続いてほしい。

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『夏の庭』(湯本香樹実著 新潮文庫)読了。寺山修司に師事していただけあって、単なる老人と子どもの心の交流を描いた物語では終わってなかった。

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2005年10月 9日 (日)

『白線流し~夢見る頃を過ぎても~』 深みのあるドラマ

切ない思いに胸が熱くなった。
それはないだろうといった破綻と感じる場面も多々あった。あったが、見終わったあとは「まあそれはそれでいいか」という気持ちにさせてしまう何かが作品に備わっていた。ほろ苦く切なく、それでいて温かいそんな思いが残る素敵なドラマだった。
人生の転機となるような大きな出来事を省略を用いて物静かに語っていく手法が見事であった。主人公が愛する青年の妻(実は婚姻届は出されてなかったのだが)の死や、友達の一人が警察官をやめる場面などが、実にさらりと言葉少なに役者の表情に多くを語らせることでて描かれていて素敵であった。
また登場人物に向ける作者の眼差しに人間を見る深さを感じ、共感できた。今回このドラマでは主人公の教え子の一人として学年一の成績優秀な少女が登場する。多くの学園ドラマでは優等生はその学力の優秀さが心の貧しさの原因となっているというステレオタイプとして描かれる。しかし、多くの凡庸なドラマのような視線はこのドラマにはない。その少女に「私って(頭がいいから)かわいくないよね」とさらりと語らせる場面では、成績優秀であるがために生まれる心の襞が実にさりげなく見事に描かれていた。信本敬子が脚本を担当しているこのシリーズでは、落ちこぼれの生徒にも成績優秀な生徒にも等しく温かい眼差しが注がれている点が素晴らしい。

第3回フジテレビヤングシナリオ大賞で大賞を受賞した信本敬子。その受賞作『ハートにブルーのワクチン』も『白線流し』同様、星が重要な役割を演じる作品だった。もう10年以上前になるが私はフジテレビヤングシナリオ大賞に応募したことが一度だけある。その時受賞作品の傾向を研究するために熟読したのが『ハートに…』だった。私は第6回のヤングシナリオ大賞に応募した。『ときめきよろめきフォトグラフ』と名づけた作品は最終選考の更に先の9人の1人まで残ったが、そこまでだった。
主人公の友達の一人(以前は役者希望だったが現在は脚本家志望?)が最後のシーンでフジテレビヤングシナリオ大賞に応募する。きっと封筒の中には『白線流し』という脚本が入っていたのだろう。そして、それが日の目をみて今まで私たちが見てきた『白線流し』シリーズが生まれていくという円循環を形づくるということになるのだろう。その意味で、このドラマは完結せずに永遠に続いていく。実に見事なエンディングだと感じた。

私はもうヤングではないが、もう一度以前のような夢を追ってみたくなった。

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2005年10月 8日 (土)

『なっちゃんの夏』そして次回作

3月に関東の演劇コンクールで上演した自作『なっちゃんの夏』が「演劇と教育10月号」に掲載された。この劇は教室演劇のために作られた作品だ。
私は後書きに次のようなことを書いた。

 最近教室での劇上演の魅力にはまっている。教室を舞台にした劇を、教室の壁に沿って座ってもらいみてもらう。子どもたちの演技と観客の笑い声そして啜り泣きの声のコラボレーションが劇に新たな生命を与える。『なっちゃんの夏』はそんな教室上演のために創られた劇だ。この劇にあった空間は囁く声が本当の囁きとして聞こえる空間。体育館に響き渡る声はこの劇を壊してしまう。この劇には体育館の上演は似合わない。
 
この夏に行った演劇発表会に近くに住んでいるおばあさんから上演する子どもたちにと手作りのケーキのプレゼントをいただいた。昨年上演した劇に大変感動したお礼なのだという。何人かの部員が登校日にお礼の手紙を書いてきた。そして私はそれを届けにおばあさんの家を訪れた。おばあさんはその手紙に涙を流した。劇から生み出される交流、今それを大切にしたいと思っている。発信は教室から。さて次はどんな劇を創ろうか。

今、私は次の作品を書き出している。まだタイトルは決まっていない。
今日から始まった2学期制に伴う、秋の休み。
この秋の休みの5日間で骨組みを完成させる予定である。

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